2017年1月27日金曜日

ある夕暮れ時に走っていたらふと気づいた、ある「視点」の話


 いつも小難しい話が多いので、今回はちょっと肩の力を抜いて書いてみたい。

■ランニング雑感

  私はランニングが好きで、時間があれば近所のコースに走りに行く。だいたい週2、3回くらい。
  ランニングのどこが好きかと問われたら、ただ無心になって走れるところ、と答える。ただ走るだけだから、球技や格闘技のような細かいテクニックは要らない。その日の調子で速く走ったり遅く走ったりするだけ。もちろん苦しくなるけれど、同時に爽快感もある。専用のグラウンドや器具が要らず、気軽にできるのも良い。

 私の好きな作家、村上春樹氏もランニングの習慣をお持ちのようだ。彼は1日何枚と書く量を決めていて、終わったらランニングをするようである。どういう表現だったか忘れてしまったけれど、走ることでいろいろリセットできる、みたいなことを彼は何かに書いている。

 その感覚は私も理解できる。リセットとはちょっと違うけれど、私は走りながら考えを整理したり、頭の中のモヤモヤをクリアにしたりしていると思う。
 たとえば当ブログの記事を書きあげたら、投稿する前にランニングに行く。で、走りながら記事について思いを巡らす。話の道筋はどうかな、論理的におかしくないかな、何か書き忘れてないかな、とか考える。するとだいたい、「あーこのことも書こう」とか「あの部分は要らないな」とか、いくつか改善点が見つかる。ランニングの後でそれらを修正し、ようやく投稿に至る。

 と言っても毎回ブログ記事のために走っている訳ではない。本当に何も考えないでボケッと走っている時もある。そっちの方が多いかも。

■ランニング中の気づき

 つい先日もコースを走っていた。午後4時半過ぎだった。ちょうど日没のタイミングで、大きな夕日が、ちょうど私の目線の先にあった。たいへん眩しかった。スポーツ用のサングラスをしていても眩しく、視界が悪かった(走っていて苦しかったのも影響しただろう)。向こうから来る人が、けっこう近くに来るまでわからなかった。

 で、そんなこんなで折り返し地点まできた。私はポールの周りを回って180°向きを変えた。ちょうど夕日に背を向ける形になった。
 すると一気に視界が開けた。夕日がすべてを照らし、クリアにしていた。私は道の先の先まで見通すことができた。さっきまでとはえらい違いである。敵だったはずの夕日が、急に味方になってくれたような感じ。何もかもがクリアだった。

 その時私はふと気づいた。視点が変わるとものの見え方も変わる、という当たり前の事実に。
 それは当たり前なのだけれど、案外重要なことだ。

 視点が変わると、世界は違って見える。

 カルトっぽい教会で頑張っていた頃の自分をふと思い出した。あの頃は「神様のために」と信じて、牧師に言われるまま働いていた。朝から晩まで働き、徹夜することも少なくなかった。突然呼び出されたり、理不尽な叱責を受けたり、皆の前で笑いものにされたり、今思い出すと腹立たしいことばかりだった。けれど当時は、純粋に「これが信仰だ」「これは神様からの訓練だ」と思っていた。

 たぶん当時の私がこのブログの記事を読んだなら、きっと「なんて不信仰な人だ」とか「何もわかってない」とか思うだろう。私がこのブログで批判的に書いている様々なトピック、たとえば「霊の戦い」とか「繁栄の神学」とか「預言的アクション」とか「ダビデの幕屋の礼拝」とか、そういうのを当時の私は大真面目に信じていたからだ。自分(と自分の教会)こそが「神の側」であり、真理に開かれており、他のすべての教会はイマイチわかってない、みたいな理解の仕方をしていた。非常に傲慢だったのである。でも自分では傲慢だなんてちっとも思っていなかった。

「当時の私」と「現在の私」とを隔てているのは、簡単に言えば「視点の違い」だと思う。向きを変えてみると、世界が違って見えるのだ。ちょうど太陽に向かっている時と、太陽を背にしている時とで、見え方が全然違うように。

 自分の教会の間違いや、それを引き起こしていた牧師の様々な嘘が、今ならわかる。すごくクリアに見えている。でも当時はまったく見えなかった。何となく疑問に感じる部分はあったと思うけれど、行動を起こすには至らなかった。

 と、そんなことを走りながら考えた訳である。

■群盲象を評す

 この話には、これといった結論はない。あえて続きを書くならば、ランニングを終えて家に帰ってシャワーを浴びた、みたいなどうでもいい話になる。そんなこと誰も読みたくないだろう。だから結論はない。

 ただ一つ書き加えるなら、たとえば原理主義的な人とリベラルな人との議論が結局どこにも到達しない、みたいなことがある。あれも突き詰めて考えてみれば、「視点の違い」が根底にあると思う。互いに向いている方向が違うから、見える景色も違うのだ。それぞれ違う風景を眺めているのに、あたかも同じものを見ていると錯覚したまま話しているとしたら、さてどうなるだろう。

 インド発祥の寓話に「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」というのがある。
 何人かの盲人が、それぞれ象の一部だけに触れ、感想を述べ合う。鼻を触った者は「蛇のようだ」と言い、脚を触った者は「太い柱のようだ」と言い、耳に触った者は「扇のようだ」と言う。そして争いになる、という話。皆それぞれ正しいことを言っているだけに、誰もゆずらない。これもやはり「視点の違い」に基づく話であろう。

 なんか中途半端だけど今回はここまで。

2 件のコメント:

  1. 視点の違いと言うことに関して言えば、カトリックの場合1965年の第2バチカン公会議を境に、視点が大きく変化したわけだが、50年たっても、変わったかと言えば、そうではない。70歳以上の人が現在の各地のカトリック教会信徒会の幹部を占めているわけで、60歳は若手、50歳は若造、40歳は?というのが実態ではなかろうか。インターネット、それなに、スマホ、そんなもの知らん、という世代では、このようなプログの存在すら知らないだろう。

    返信削除
  2. >>原理主義的な人とリベラルな人との議論が結局どこにも到達しない、みたいなことがある。あれも突き詰めて考えてみれば、「視点の違い」が根底にあると思う。互いに向いている方向が違うから、見える景色も違うのだ。

    これは確かにあると思いますね。あちら側はとにかく教条主義的といいましょうか、現実を見ていないといいましょうか・・・。理想論をとうとうと並べ立てているといったほうがいいのかもしれませんよね。
    こちらは聖書にこう書いてあるとかああ書いてあるとかいう話は抜きにして、まず現実を見なくてはならないということから、話が出発しているといえるでしょうか。

    たとえば新興宗教系プロテスタントの人は、宗教のために家庭を破壊してもかまわないと考えています。これは公序良俗に反するので、明らかにおかしな考え方だと思うのですが、それはあくまでこちら側の思いでしかないということなのでしょうよ。
    われわれは「いくら熱心に信心していても家庭を壊しては元も子もない」と考えていますが、あちら側は「熱心に信心した結果、家庭が壊れたとしても、それこそが神の祝福なのだ」と考えています。

    結局のところ、新興宗教系プロテスタントとわれわれの間には、「深くて暗い溝がある」のだと思いますね。永遠にわかりあえることはないでしょうよ。
    (・・・しかし宗教のために家庭を壊すのはよいことだという、公序良俗に反するものの考え方を受け入れる人が、果たしてどのくらいいるのでしょうかね?)

    返信削除