2017年1月11日水曜日

クリスチャンと「論理」

 前回は「微熱って『悪魔の攻撃』なんですか」という記事を書いた。
 微熱とか頭痛とか腹痛とかの体調不良、あるいはもっと重い病気などを短絡的に「悪魔の攻撃だ」と決めつけるのは根拠がないし、論理的でもない、というような内容だった。今回はそれに追加する形で、クリスチャンが持つべき「論理」について書いてみたい。

■論理の必要性

  前回の話を引用すると、たとえば微熱は、小児や高齢者や虚弱体質の人に出やすい症状である。若い人だってちょっとした変化で熱を出すことがある。あるいは反対に、微熱さえも出したことがない人だって中にはいる。また、微熱を出したことで成り行き的に良い結果になった、という場合だってある。
 だから、誰かの微熱はもしかしたら「悪魔の攻撃」なのかもしれないけれど、そうでない場合だって多々あるはずで、その判定を誰がどんな基準でどうやってするのか、という問題が出てくる。教会にくると約束してくれたAさんが、当日微熱で来れなくなり、「あーこれは悪魔の攻撃だな」とクリスチャンの側が決めつけても、実際には単にAさんが面倒臭くなって口実を付けただけなのかもしれない。あるいはそうでなく、純粋に熱が出て体がキツくなってしまったのだとしても、だからと言ってそれを「悪魔の攻撃だ」と判定する根拠がない(あると言うのなら、納得できるように説明してほしい)。

 この例からもわかる通り、クリスチャンにも筋道の通った「論理」が必要だと私は思う。「A=B、B=C、ゆえにA=Cである」みたいなシンプルな論理が。

 しかしこういう話をすると、こんな反論がやってくる。「いえ、信仰とは論理で割り切れるものではありません」
 信仰とは心で感じるものだ、内なる感覚に従うものだ、みたいな。でもそれは、私に言わせれば「主観」でしかなくて、根本的に矛盾している。

 なぜなら、「信仰は論理で割り切れない」と言う割には、聖書の記述が科学的に立証されるのを彼らが喜んでいるからだ。たとえばノアの方舟のサイズが船舶建造の黄金比に合致していたとか、大洪水以前の人々の寿命が長かったのは地球を水蒸気層が覆っていたからだとか、そういう論理的発見(それが正しいかどうかは別として)により聖書の「正しさ」が証明されたと言って、彼らは大いに喜んでいるのだ。

 つまり、信仰に「論理」が持ち込まれるのは喜ぶけれど、自分の感覚に「論理」を持ち込もうとはしない。
 自分の「感じたこと」は絶対「正しい」けれど、それが論理的かどうかという検証はしない。

 私がこのブログでイロイロ問題提起をしていると、時々反発する人が現れる。でも残念なことに、一人として、論理的に納得できる反論をしてくれた人はいない。酷いものになると「うるせーとしか思わない」「こんなの書くのは小物」みたいなお子様レベルの中傷がやってくる。

 私は自分が正しいとは思っていない。おかしいと思うことを、「おかしいと思う」と言っているに過ぎない。誰かがちゃんと説明してくれて、それでスッキリ納得できるなら、いくらでも自分の考えを訂正したいと思う。

■福音は非論理的なのか

 時々こんな意見も目にする。
「キリストの福音は理屈(論理)で割り切れるものではない」
  すなわち、それを信じるのは論理を越えた部分である、という意味であろう。

 しかしこの意見は、論理と論理でないものとを混同していると思う。
 つまり、キリストの十字架の死と復活は、キリスト自身にとって合理的なものではなかったかもしれない。わかりやすく言うと、感情的には嫌だったかもしれない。しかし彼自身の教えである「隣人愛」を究極的に体現したものであって、その意味でちゃんと筋道が通っている。すごく論理的な行為だと思う。

 だいいち、もしキリストの福音に論理的矛盾があるとしたら、私たちは果たして信じただろうか?
「A=B、B=C、でもA=Cではない」みたいな論理的破綻があるとしたら、誰だって不安になると思う。たとえば、「神は愛である。神は1人として滅びることを望まない。ゆえに神はあなたの罪を許さない」みたいなおかしな話だったら、みんな相当困ってしまう。少なくとも教理として受け入れはしないだろう。私たちだって誰かに福音を伝える時、ちゃんと筋道を立てて説明しようとすると思う。話が支離滅裂だったら、誰も信じてくれないからだ。
 その意味で、やはり論理は必要なのだ。

 そういう論理の上に福音を成り立たせ、誰かに説明したとして、それを相手が信じるかどうかは、たしかに「論理を越えた部分」の話になるかもしれない。しかし論理がなければそこまで到達できないのであって、論理はいらないとか、自分の感覚が全てだとか、そういう話にはならない。

 という訳で、信仰には論理が必要だという話。
「微熱が出て教会に行けない」→「あー悪魔の攻撃だね」
 そこにどんな論理があるのか、あるいはないのか、よくよく考えてみていただきたいと思う。

3 件のコメント:

  1. 興味深く読んでいます。2000年前のユダヤであれば、微熱は悪霊、悪魔の仕業という論理は成立したでしょう。病気になるのは悪霊、悪魔の仕業、暴風雨になるのも悪霊、悪魔の仕業、・・・悪霊の仕業と悪魔の仕業との区別はほとんどなかったでしょう。そもそも2000年前の論理を現代に適応しようと言うこと自体が無理ですね。ウィリアム・バークレーの聖書注解シリーズには、その問題についてそれこそ論理的に説明していますね。

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  2. 2000年前のユダヤでは、通用する論理ですね。病気は悪霊、悪魔の仕業による。暴風雨も悪霊、悪魔の仕業によるという論理は、一般常識だったわけですから。論理というのも、特定の時代と特定の地域の一般常識の上に成り立っているものですから。論理の展開ということに関しても、同様ですね。ウィリアム・バークレーの聖書注解シリーズで、バークレーさんは、2000年前の論理と現代の論理を対比させながら、聖書の注解を行っているので参考になりますよ。

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  3. >>しかしこういう話をすると、こんな反論がやってくる。「いえ、信仰とは論理で割り切れるものではありません」
     信仰とは心で感じるものだ、内なる感覚に従うものだ、みたいな。でもそれは、私に言わせれば「主観」でしかなくて、根本的に矛盾している。

    >>私がこのブログでイロイロ問題提起をしていると、時々反発する人が現れる。でも残念なことに、一人として、論理的に納得できる反論をしてくれた人はいない。酷いものになると「うるせーとしか思わない」「こんなの書くのは小物」みたいなお子様レベルの中傷がやってくる。

    これは確かに新興宗教系プロテスタントの関係者にはいえることかもしれません。
    彼らは「ただ何となくそう思う」的な感性で判断する傾向がありますので、芸術家タイプといえば聞こえはいいでしょうが、嫌な言い方をすれば「ただの気分屋」ということでもあります。
    彼らが論理的に反論することはまず期待できません。なぜならばそもそも彼らは論理的に考えることができないからなのです。
    新興宗教系プロテスタントは反知性主義ですので、そもそも論理的な思考などというものは必要がありません、というよりも論理的な思考などされては困るのです。よってあちらの業界の中にどっぷりつかっていると、論理的に物事を考えることができなくなるというのがあります。
    彼らの返答は単なる感情の爆発みたいなものでしかなく、まともに拝聴するほどの返答が返ってきたことは一度もありませんので、全然取るに足らないものです。

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