一年の計は元旦にあり、という訳で年の初めにイロイロ「決意表明」する人がいると思う。クリスチャン界隈でも少なからずいるようだ。
年が明けて、フレッシュな気持ちで新しいチャレンジをしようと思うのは理解できる。たしかに年の初めは、何かを始めるには良いタイミングかもしれない。
しかし私個人は、元日に特別な「決意表明」はしない。というか元日でなくてもしない。イロイロ考えて「やる」と決めたことをやるだけで、それを他人にアピールしようとは思わない。今回はその理由について書いてみたい。
ではさっそく。
■私が年始に「決意表明」しない理由
①継続できるかどうかわからないから
ここでも何度か書いているけれど、何でも始めることより、継続することの方が大切だと私は考えている。
何でも始めるのは案外簡単だ。クリスチャン界隈でもイロイロ始める人たちを見る。けれどそれをどんな形であれ継続し、1年後も2年後もやり続けている、という人は案外少ない。イロイロ事情があるのだろうけれど、途中で断念してしまう人が多い。
こういう関連の話で聖書、特にキリストが何と言っているかというと、(意訳すると)「できるかどうかまず考えなさい」だと思う。余裕があるならルカの福音書14章を読むことをお勧めする。塔の建設や戦争のたとえが紹介されている。
もっとも聖書を引用するまでもなく、やる前に「できるかどうか考えてみる」のは、当たり前の話なのだけれど。
年始に「今年は〇〇を極める!」と決意表明しても、2月を迎える前に断念してしまうとしたら、きっと見込みが甘かったのであろう。それでもし年始の決意のスクリーンショットを誰かに保存されていて、「この決意はどうしたんですか?」とか尋ねられたら、面目丸潰れになってしまう。だったら何も言わない方が良かったんだと私は思う。
もちろんその裏返しで、「表明したからには続けなければ」というのがモチベーションになる、というケースもあるとは思うけれど。
②やってみなければわからないから
新しいチャレンジは多くの場合、「やってみなければわからない」という側面を持っている。初めてやることなら尚更だ。
で、実際にやってみると、思っていたより時間のかかることだったり、想定より負担の大きいことだったり、イロイロ自分のイメージと違うことだったりして、「こんなはずじゃなかった」という事態に直面する可能性がある。気合を入れて始めたことなら尚更だ。
それでも初めのうちは、気力や新鮮さがあるから乗り越えることができる(かもしれない)。しかし慣れた頃になると状況が変わってくる。こんなはずじゃなかったという思いが強くなったり、仕事や勉強で十分に時間を取れなくなったりして、モチベーションが下がりやすくなる。
ギターを例に挙げると、指でスケールを弾いているうちはまだ良い。しかしコードを指で押さえるようになるとハードルが上がってくる。たぶん多くの人はFやB♭あたりで壁を感じるだろう。そしていくら練習しても弾けない、という状況になると、チャレンジ精神よりも、嫌気の方が大きくなってくる。そうなると継続は難しい。
そういうふうに「やってみなければわからない」ことなのに、「今年は〇〇を極める!」みたいな言い方をしてしまうと、後々辛いことになる可能性が高い。せめて「○○に挑戦してみたい」くらいに言っておく方が、無難だと思う。
③他人に向けて「表明」する必要がないから
そもそもの話だけれど、自分の「決意」をなぜ他人に「表明」する必要があるのか、という点は案外見過ごされていると思う。
本来的には、自分がこうと決めたことを実行するのに、事前表明とか、他者による認知とか承認とか、必要ない。もちろん家族や上司の許可を得なければできないことなら話は別だけれど、そうでないなら黙って始めても差し支えない。むしろ上記の①②の理由を踏まえても、黙って始めるのは賢いと思う。
それでもあえて他者に向けて「決意表明」するとしたら、それはもう積極的に「他者による監督」を必要とする場合であろう。たとえば「英会話できるようになる」みたいな決意を表明したものの、他者の目がなければ長続きしないと自分でわかっている場合、まわりに事前に言っておくことで、「英会話は進んでる?」みたいに誰かに言ってもらえるようになる。そうやって時々発破をかけてもらわないと続かないなら、たしかに「決意表明」も有効であろう。
ただその場合、他者に監督してもらわないとできない、という事柄を本当にやる必要があるのか、再考すべきだと私は思う。 初めから他者依存が前提になっているとしたら、それだけ自分の中の「動機」が弱いと思うからだ。なぜそれが自分にとって必要なのか、考えてみた方がいい。
④まとめ
という訳で、私個人は年始の「決意表明」はしない。決意は自分の胸の内にあればそれでいいと思っている。
何かを始めること、目標を持つこと、それを継続すること、それらは横文字でセルフ・マネジメントとかセルフ・コントロールとか表現されると思うけれど、つまるところ話はそこに尽きるように思う。ガラテヤ5章にも「自制」という言葉が書かれている。クリスチャンにとってセルフ・マネジメント力は大切だろう。
そしてセルフ・マネジメントができるようになるならば、年始だろうが何だろうが、殊更に「決意表明」する必要もなくなっていくと思う。
もちろん「決意表明」する・しないは個人の自由なので、止めようとは思わない(そもそも止めることはできない)けれど。
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