微熱って「悪魔の攻撃」なんですか

2017年1月6日金曜日

「悪霊」に関する問題

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■微熱って「悪魔の攻撃」なんですか

 あるクリスチャンの方々の、こんな会話がある。

A「知り合いを教会に誘ったら、次の日曜に来てくれることになりました」
B「ハレルヤだね。Aさんの祈りが通じたね」
A「はい、ありがとうございます」
(次の日曜日)
A「知り合いが朝から微熱で、来れなくなりました」
B 「あー悪魔の常套手段だね。続けて祈ろう」

 これを見て、皆さんはどう思われるだろうか。
 ちなみに私は溜息をついてみた。

 これはつまり、「微熱=悪魔の攻撃の常套手段」という話なのであろう。でもどうしてそういう話になってしまうのか、根拠が知りたい。

 またその根拠が何であれ、微熱が悪魔の「攻撃」だとしたら、ずいぶん可愛いらしいと思う。それにそんなこと言ったら、新生児や乳児は四六時中「攻撃」されていることになるし、体温調節機能が低下した高齢の皆さんは布団を厚めにかけただけで悪魔に「攻撃」されてしまうことになる。
 そういうチョコマカした「攻撃」で人に嫌がらせするのが、現代の悪魔のやり方なのだろうか? だとしたら悪魔など恐れるに足りないのではないか。解熱剤や冷えピタで、簡単に撃退できるのだから。

 あるいは、「教会に来ようとした人を微熱で邪魔してやった」のがその悪魔の功績なのかもしれない。人を教会から遠ざけるのが悪魔の目的で、微熱はあくまでその手段の1つ、という話なのかもしれない。だとしたら「悪魔の策略」など見え見えで、やはり恐れるに足りないと思う。
 なぜ人類は、こんな見え透いた手しか使わない悪魔にやられてしまったのだろうか。よくそういう教会では「悪魔の策略は巧妙だ」みたいな話が出るけれど、これのいったいどこが巧妙なのだろうか。
 と、私はイロイロ疑問に思う。

■本当に「悪魔の攻撃」だとしたら

 聖書に「悪魔の攻撃」を求めるならば、たとえばヨブ記が挙げられるだろう。サタンは神の許しを得て、ヨブの全身を腫物で覆うという身体的「攻撃」をした。あるいは新約を開くならば、人に憑依(?)して凶暴化させた悪魔とか、豚の群れに入った悪魔とかも出てくる。なるほど、悪魔は人間を物理的にも「攻撃」する、と読むことができる。

 しかしかと言って、悪魔の「攻撃」が必ずしも病気だとか、必ずしも微熱だとかいうことにはならない。もし病気が全て悪魔の「攻撃」ならば、今いる病人たちは皆「攻撃」された(あるいは攻撃され続けている)ことになる。そして今まで大病とか大きな怪我とかしなかった人たちは、未信者か信者かに関係なく、一度も「攻撃」されなかったことになる。その差はいったい何なのだろう。悪魔は健常で病気にかかりにくい人たちを「攻撃」できないのだろうか。免疫力の弱い人たちしか「攻撃」できないのだろうか。

 また病人と一口に言っても、そこには年齢別・階層別の明らかな「差」があるはずだ。簡単に言うと、若い人の病気率は低く、小児と高齢者の病気率は高い。とすると、悪魔は小児や高齢者を重点的に攻撃している、ということになる。でもどうして? 気力・体力ともに充実している若者は狙いづらいのだろうか。

 ヨブ記に限定して言えば、悪魔の攻撃は「神の許可」を得て行われたはずだ。とすると、(病気=悪魔の攻撃ならば)神が全人類を病気で攻撃する許可を悪魔に与えた、ということになる。であるなら、微熱なんて可愛い攻撃で済むのだろうか。もっと壮絶なことにならないだろうか。悪魔が人間に対してそんなに手加減するのだろうか。

 それに、病気になってかえって良かった、というケースだってある。
 実際にあった話だけれど、ある人が遠方の「聖会」に参加しようとして、新幹線のチケットまで用意していた。しかし前日になって体調を崩してしまい、泣く泣く参加を断念した。けれど当日たまたま大雪が降って、もし予定の新幹線に乗っていたら途中で立ち往生してしまうところだった。それを知った関係者は「これも主の守りでしたね」とか言っていたけれど、あれ、病気って悪魔の攻撃なんじゃなかったっけ? なんか都合よくないですかね。という話。

 結局のところ、「悪魔が病気をもって人間を攻撃する」のは否定できないけれど、肯定もできない。起こった事象を主観的にどうとでも解釈できてしまうのだから。ちょうど教会に来ようとした朝に微熱が出たのを「悪魔による妨害だ」と思いたい心情はわかる。けれどそれは心情に過ぎない。そこに明確な根拠は見つけられない。

■悪魔について論じる前に考えるべきこと

「教会に行こうと思ったけれど、微熱が出たので行けなかった」
 それを「悪魔の攻撃」と短絡的に考えるより前に、少し人間心理について考えてみることをお勧めする。

 ぶっちゃけた話、「微熱があるから休む」としたら、それは(その人にとって)さほど大切な用事じゃなかった、ということだ。はじめから。
 もちろん虚弱体質とか病弱とかで、ちょっとの熱でも大変つらくなってしまう、という身体状況の人は別だ。けれどそうでない人、特に健常で若い人などは、微熱くらいだったらかまわず出掛けるだろう。大事な用事があるなら尚更である。

 自分の場合で考えてみればわかると思う。あなたにとって重要な日、なんでもいいけど、以前から心待ちにしていたイベントの日とか、仕事上重要な会議がある日とか、結果によって進路が左右されてしまう大事な試験の日とか、そういう日の朝に多少熱があってもお腹が痛くても、休むという選択肢はなかなか思い浮かばないのではないか。まして微熱くらいなら、滅多なことでは休まないと思う。

 逆に簡単に「休もう」と思える状況は、どんなものだろう。当然ながら、さして重要でない用事の時であろう。誰かとの義理で(半ば迷いながら)約束したこととか、ちょっと行ってみようかなと軽い興味があっただけのこととか、そういう時にちょっと微熱があれば、ちょっと腹痛があれば、ちょっと具合が悪ければ、ちょっと都合が悪ければ、あるいはちょっと面倒だなと思えば、容易に「今回は休もう」という発想になるはずだ。

 教会に時々きていた若者Aくんの話を紹介しよう。彼は決して熱心でなく、礼拝は休みがちだった。Aくんはどちらかと言うと、礼拝が終わった頃に裏口からコソッと入ってきて、お菓子をつまんだりおしゃべりしたりするのを楽しむ子だった。礼拝に誘うと「来週は必ずきます!」と元気よく言うのだけれど、いざ来週になると「歯が痛いから」「体がだるいから」「逆さまつ毛の治療に行くから」とかイロイロ言って休んだ。さて、彼は毎週毎週「悪魔の攻撃」を受けていたのだろうか。ちなみに言うと、逆さまつ毛の治療は日曜日にはできないはずだけれど。

「教会に行こうと思っていたけれど、微熱が出たから行けなかった」というのは、私に言わせれば「今回は遠慮します」という遠まわしな意思表示に他ならない(もちろん例外もあると思うが)。それを「悪魔の攻撃だ」とか「あー悪魔の常套手段だね」とかしたり顔で言うのは、何とも痛々しくないか。悪魔ウンヌンとか天使ウンヌンとか霊的にウンヌンとか言う前に、人間とはどんなものかを、もうちょっと考えた方がいいと私は思う。

 もしかしたらこういう反論があるかもしれない。「中には誠実に約束を守る人もいます」
 大丈夫。そういう人は微熱くらいじゃサボらないから。

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