2017年1月23日月曜日

聖書の「無誤無謬」について・その2

 聖書の「無誤無謬」について、2回目。
 前回のポイントをまとめると、聖書記述の物語性、時代性、地域性を考えるなら、単純に「絶対正しい」か「絶対誤っている」かという方向の話にはならないのではないか、ということ。

 今回は、そもそも「聖書無誤無謬説」にどう接していくべきか、という点について私見を述べてみたい。かなりブッタ切るつもりなので、保守的な方は読まない方がいいかも。
 ではさっそく。

■聖書の記述は歴史性においても正しいのか、という点

 聖書無誤無謬説について調べてみると、一つのトピックとして「歴史性」の問題が挙げられるようだ。
 すなわち聖書の歴史的記述、たとえば創世記に書かれた様々な事象が、本当に字義通りに起こったのかどうか、みたいな問題。天地創造の記述はもちろん、洪水前の人々の寿命がやけに長かったこととか、本当に地表を覆い尽くすほどの大洪水が起こったのかとかが、科学的にどうなのかと議論されているようだ。
 また、エデンの園に登場するヘビはサタンそのものなのか、あるいは別の何かの象徴なのか、という議論もある。あるいはちょっとズレるけれど、モーセ五書の著者が本当にモーセ本人だったのか、というのもある。

 でも私に言わせれば、それらの答えがわかったところで、何になるの? という話。
 その歴史性が正しかろうが誤っていようが、それが実在だろうが何かの象徴だろうが、「聖書に書かれている」という事実は変わらないし、そこにある神の意図を読み取ろうとする方が幾倍も重要だと思う。特にモーセ五書の著者が誰かなんて、言葉は悪いけれど、どうでもよくないですか? それとも著者がモーセじゃないと証明されたら、読み方が変わるんですか? なにも変わらないと思うけれど。

 という、身も蓋もない言い方で申し訳ない(気もする)。でも申し訳ないついでに書くと、そもそもの話、無誤無謬についての議論なんてあんまり意味がない気がする。もちろん、たとえば天地創造の原理が科学的に解明されでもすれば、それはそれですごいインパクトになるだろう。だからそういう研究自体の価値を否定するつもりはないのだけれど。

■聖書の各書簡の重要性のちがい、という点

 次に聖書無誤無謬説の周辺的な話題だけれど、聖書の各書簡の重要性のちがい、というのも議論になるようだ。
 簡単に書くと、たとえば新約の福音書はすごく大切だけれど、旧約のうしろの方の小預言書はさほど重要でない、みたいな立場がある。その一方で、いやいや聖書はどのページだって同じように重要だ、という真逆の立場もある。
 あなたはどちらだろうか。

 私個人は、聖書通読は必要だと思っている。
 簡単にできることではないけれど、聖書を頭から最後まで何度か通読して、全体に目を通すのは有益だと思う。その理由は一にも二にも、それがキリスト教の教典だからだ。信仰者であるなら教典全体に目を通すのは当然であろう。何が書いてあるのか把握しないまま、その対象(神)を信奉するというのは、私には違和感がある(もちろん聖書を入手できない時代や地域は事情が変わってくると思うけれど)。
 だからその意味において、書簡に区別を付けず、聖書全体を読むのは大切だと思う。

 しかし一方で、すごく実際的な話をすると、読むのがとっても苦痛な書簡があるのも事実だ。たとえばレビ記は、私はあまり読みたくない。同じようなことが延々と続く箇所があるからだ。これ割愛してもよくね? といつも思う。
 そして反対に、何度でも読みたい書簡もある。個人的には、キリストの山上の垂訓がとても好きだ。またヨハネの福音書全体も好きだ。ちょっと自慢させてもらうと、私は一時期、ヨハネの福音書を頭から全部暗唱したことがある。

 だから実際的な話、聖書の各書簡の重要性はそれぞれ「ちがう」と私は考える。単純に考えて、新約聖書か旧約聖書か、どちらかしか持って行けないという状況になったとしたら(どんな状況だよ)、誰もが新約聖書を選ぶのではないだろうか。
 理想として「聖書は全体が重要だ」と言えればいいだろうけれど、現場レベルでは、読みやすい書簡と、そうでない書簡との区別があると思う。その証拠に、たとえばナホム書とハバクク書とゼパニヤ書が旧約聖書の何番目の書簡か、パッと答えられる人がどれくらいいるだろうか。私は答えられないけれど。

■聖書の議論、聖書の実践

 というわけで、聖書無誤無謬説もそれに関する議論も、あまり意味がないように私は考えている。また無誤無謬説だけでなく、時々みるクリスチャン界隈でのイロイロな議論についても、結果的にどこに着地したいのかよくわからないことがある。
 もちろん聖書を探求しようとか、深く掘り下げたいとかいう動機そのものは良いものであろう。議論が必要な時もあると思う。でもたとえば、黙示録の一節一節を取り上げて「これにはこういう意味がありそうだ」「こんなことも考えられる」「こういうことかもしれない」と捏ね回したところで、それがいったい何になるのか私にはよくわからない。本人は満足かもしれないけれど。

  たとえばキリストの言う「隣人愛」について知りたかったら、もちろん聖書の記述を最低限知っておく必要があるけれど、聖書や注解書を捏ね回すより、実際に友人や知人に声を掛けてみる方が有益だと思う。

 昨年4月の熊本地震をまた引き合いに出すと、「この地震には〇〇という霊的意味がある」とかほざく暇があったら、支援金を千円でも二千円でも送った方がまだ役に立ったと思う。当時、「今は祈りましょう」とか「今現地に連絡しても迷惑になるから」とか言っていた人たちは、その後1回でも現地に連絡を入れたのだろうか。被災した方々に、一言でも声を掛けたのだろうか。
 そのへんに、「議論」と「実践」のちがいがある気がする。

 話が脱線したけれど、結論はそういうこと。聖書研究そのものを否定する気はない。議論も良いだろう。けれど聖書無誤無謬説とか〇〇説とか聖書を捏ね回す時間を少しでも割いて、困っていそうな友人知人に電話の一本でも入れたらいいのではないかな、と私は思う。

1 件のコメント:

  1. 旧約聖書の、ゼファリア書とゼカリア書とはどうちがうのか?などということは、どうでも良いし、理解したくもない信者が多いのではないだろうか。神は偉大だ、素晴らしい、万歳といいたい人は、ゼファリア書とゼカリア書との区別すらつかなくても良いわけだ。紀元前500年前、600年前のパレスチナのことなんか、どうでも良いというのが、普通の信者の感覚ではなかろうか。

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