2016年10月28日金曜日

これ言ったら「自己啓発教」かもよワード(ツッコミ付き)

 前回は、キリスト教っぽくてぽくない「自己啓発教」について書いた。
 キリスト教風にうまく味付けされているけれど、中身は巷の自己啓発本の寄せ集めですよ、っていう信仰スタイルについてだ。昨今の「先進的な」教会なり牧師なりに蔓延しているスタイルの1つでもある。いかにも神のため、他者のため、地域のため、社会のため、みたいな言動や行動を取りながら、実は自分(たち)の利益や名誉が優先されている。しかし残念なことに、その中の人たちはそういう事態にあまり気付いていないことが多い。だから何の反省も修正も方向転換もされない。むしろますます自己啓発(自己実現)に邁進してしまう。

 もちろん人間の基本的欲求として、学者のマズローも「自己実現」を提唱している。難しい話を抜きにしても、人間誰だって「こうなりたい」「ああなりたい」という願望を持っているだろうし、それを実現すべく努力しているだろう。あるいはそこまでアクティブでなくても、幸せでありたいとか安心していたいとか願っているだろう。
 要は、誰もが自分自身を「快」の状態に置いておきたい、と願っている。そしてそれは当然のことであり、何ら問題ではない。

 では何が問題かと言うと、これは前回の結論でもあるけれど、キリストの教えの目指すところは「自己実現」という言葉に対してなら「他者実現」とも言うべきものであり、その中で終始自己実現だけを求め続けるのは、壮大な自己矛盾である、ということだ。噛み砕いて書くなら、自分のことばかり考えてたらキリスト教なんて実践できませんよ、ということ。

 ただ、「他者実現」を実践するには、ある程度「自己実現」できていないと難しいだろう、とも思う。そのへんのバランスは確かにあるだろう。だから一概に自己実現を否定するものではない。しかしやはり、そういうことを考えず、キリスト教を実践してますと言いながら「自己啓発教」に邁進しているのは、多分に問題があるだろうと私は思う。

 では難しい話はこのへんにして、これ言ったら「自己啓発教」かもよ、という要注意ワードをツッコミ付きで紹介する。

■これ言ったら「自己啓発教」かもよワード(ツッコミ付き)


・「生き生きした教会です」「いのちに溢れた教会です」「元気な教会です」

→「生き生きした教会」と「生き生きしてない教会」は誰が、どういう基準で、どうやって区別するんですか?
 それは「自分たちの方が優れている」という競争心や虚栄心の現れではありませんか?

・「ここはリバイバルの中心となる教会です」

→あそこの教会も「リバイバルの中心だ」って言ってましたよ? 日本には「リバイバルの中心」がたくさんあるんですね!

・「ここはこの世を勝ち取る教会です」

→あれ、「この世を勝ち取れ」っていう命令でしたっけ?

・「ここは正しい教会です」

→では他の教団教派は正しくない? 自分のところ以外はすべて間違っている? あるいは異端?

 ・「私たちが霊的に成長しないのは罪だ」

→聖書のどこをどう読んだらそういう解釈になるんでしょうか?

・「生産性を挙げるため、1週間を1日に見立てて行動しなさい。つまり月・火は朝のつもりでスタートダッシュしなさい」

→自己啓発本の引用です。

・「何事もホウレンソウを忘れず実施しなさい」

→ここって会社でしたっけ。

・「誰よりもハードワーカーでありなさい。しかし忙しい素振りを見せるのは二流だ」

→自己啓発本の引用です。

・「決まったことは即座に行動しなさい。スピードが命です。神を待たせてはいけない」

→だからここ会社でしたっけ。

・「バランスを取ってはいけない。1つのことに集中しなさい」

→スティーブ・ジョブズのパクリじゃないですか。

・「メールには夜中でもすみやかに返信しなさい。神は絶えず働いているんだ。神を待たせてはいけない」

→電通も真っ青ですね。

 以上。また思いついたら書く。

2016年10月25日火曜日

キリスト教っぽくてぽくない「自己啓発教」

■「カリスマ牧師」という存在

 カリスマ派という教派の話でなく、いわゆる「カリスマ牧師」というのがいる。
 しつこいようだが、カリスマ派の話ではない。

 カリスマ牧師とは、わかりやすく日本語で言うと、「信徒を強く魅了する牧師」「魅力的な牧師」「デキる牧師」である。各教派の詳しい事情は知らないけれど、福音派・聖霊派に限って言えば、牧師としての成功は、この「カリスマ性」の有無と深く関係している(と思う)。

 彼らカリスマ牧師は、何かしらの「魅力」を持っている。
 と言っても牧師としての魅力だから、必ずしも外見的なものばかりではない。むしろ外見でなく、内面的(あるいは能力的)魅力の方が多いかもしれない。たとえば彼らの多くは、感動的な説教をすることができる。言葉巧みに人心を掴み、影響を与えることができる。日常的な言動や行動がスマートで、随所に賢さを見せる。大胆、かつ慎重である。「ためになる話」を沢山知っていて、ちょっと思いつかないような発想、視点、思考パターンを持っている。そしてそれらを惜しみなく提供してくれる。

 昨今はいろんな業界に「○○のカリスマ」というのがいるけれど、要はその牧師版である。

 カリスマ牧師の説教や話を聞くと、多くの人は「へえそうか」とか、「なるほどね」とか、「そうだよね」とかいう肯定的な反応をする。それだけ弁が立つからだ。聴衆は牧師の話によって何かを気付かされたり、教えられたり、あるいはリアルタイムの困り事に対する有効なヒントを得たりする。結果、「聞いて良かった」となる。そして「さすが牧師だ」「この先生は神の知恵に満ちている」みたいな感想なり印象なりを持つようになる。そういうことが続いて、熱心なファン(信者)ができていく。

 一例を挙げてみよう。
 たとえば教会でNPO法人を立ち上げよう」という話になる。しかし誰もそんな事務手続きをしたことがない。で、とりあえず信徒のAさんが担当者となる(そう牧師から言われる)。しかしAさんは自信がない。そして法人設立に必要な諸々の書類をチラ見しただけで、「自分には無理だ。用語がまず全然わからない」となる。また設立に時間がかかったり失敗したりするの恐れ、「できません」と辞退を申し出る。そこで牧師の話術が繰り出される。

「やる前からできないと言ったら、できるものもできない。まずはできると信じることから始めなさい。そして実際に自分できる部分からコツコツと進めていきなさい。一歩ずつでいいから。作業の全行程をて失望するのでなく、自分にできる一歩にまず集中しなさい。そういう積極的思考を、聖書は推奨している」

 そこまで言われると断れなくて、Aさんは渋々作業を始める。案の定いろいろ難攻して、失敗と訂正を繰り返す。でもそんなこんなで進め、1ヶ月、2ヶ月と経つうち、書類がなんとなく揃っていく。そして無事に受理されて、一段落となる。
 あれ、できないって思ってたけど、できたんだな、という実感をAさんは持つ。そこでまた牧師が登場。

「ほら、言った通りだろう。できないと言ったら何もできないんだ。でもそこで発想の逆転が必要なんだ。できると思えば、私たちは何でもできるんだ。聖書でパウロ先生も、私たちにはどんなことでもできると言っているだろう。だから私たちは信仰をもって何にでもチャレンジすべきなんだ。またそうして成長することが、神の御心でもあるんだ

 Aさんはその通りだなあと思って、自分の「成長」を喜ぶ。そしてそういう風教え導いてくれた牧師に感謝し、心酔するようになる。そうなると、今度からAさは牧師の教えにハイハイ、フンフン、となって、もう異論も疑問も持たないようになっていく(つまり、実体験をもって魅了されたということ
 またそうやって牧師に教えられていろいろできるようになったり、挑戦して成功したり、その過程で知識や見聞を広めたり、という「成功体験」を、「神にある成長」と捉えるようになる。

■カリスマ牧師が提供する、キリスト教っぽい「自己啓発教」

 でもNPO法人の例で言えば、たしかに書類の準備はいろいろ面倒だけれど、窓口に行って聞いたり相談したりすれば、何となくできるものだ。「難しそう」というイメージがハードルになっているとは思うけれど。またもちろんその経験は実務力のアップに繋がるし、まったく無駄ではないし、ある意味「成長」には間違いないのだけれど

 でも牧師の話に出てきた積極的思考」とか、「発想の逆転」とか、「成功体験の積み重ねによる自己効力感」とか、「『できる』と思わせる自己暗示的手法」とかいうのは、いわゆる「自己啓発本のウンチク」の集合体である。うまく聖書の記述を当てはめたとしても、それがイコール聖書信仰になるのではない。

 これは、自己啓発を否定する話ではない。自己啓発本を利用することで、より生きやすくなった、というケースってあるだろう。仕事がしやすくなったとか、人間関係が良くなったとか、気持ちが楽になったとか、自己肯定できるようになったとか、ストレスが減ったとか、そういう良い効果だってきっとあるに違いない。

 ただ私が言いたいのは、自己啓発とキリスト教の混合みたいな信仰のスタイルを「正統派キリスト教」と言うのは違うんじゃないんですか、ということだ。

 しかし一部の教会では、上記のようなカリスマ牧師の「ありがたいお話」が氾濫している。大変知恵深く、かつ斬新な発想の数々が牧師の口から飛び出して、信徒の皆さんもへへぇ~ってなってるんだけど、大抵の話はどこかの自己啓発本から拾ってきたウンチクに「キリスト教風味つけ」をしたに過ぎない。企業だったらそれでもいいんだろうけれど

 私が知る限り、そういうキリスト教っぽい「自己啓発教」を展開するのは福音派・聖霊派の「カリスマ牧師」に圧倒的に多い。
 カリスマ牧師は必然的に、有名牧師となり、人気牧師となる(なりやすい)。だから内外に発言力を持つし、影響力を持つ。その一因は彼らの「他では聞けないありがたいお話」にある。他で得られない何かを持っているから、人が集まるのである。でその「何か」というのが、大抵は自己啓発関連なのである。

 だから純粋にキリスト教を信奉しているつもりの信徒の人が、実はキリスト教っぽい自己啓発教に熱心になっている、という事態が起こる。

 自己啓発とは、「〇〇すれば自分も△△になれる」という自己鍛錬であり、自己報酬を目指した個人の努力に他ならない。簡単に言えば「自分のために頑張る」ということだ。繰り返すけれど、それが悪いということではない。むしろ自分を磨く努力も大切だと思う。けれどベクトルが他者(あるいは神)でなく自己に向いてい点で、つまりそもそもの出発点で、キリスト教が目指すものとは乖離していると私は思う。

 また何度も「キリスト教っぽい自己啓発教」と書いている通り、それは一見、キリスト教信仰っぽく見える。あるいは現代風キリスト教、先進的キリスト教、みたいに映るかもしれない。良い印象さえあるだろう。けれどやっていることは自己啓発であり、結果的に「自分のため」のものなので、他者に無償の愛を示すべきキリスト教とは、どこかで相容れなくなるだろう。
 聖書は「実で判断する」という考え方を示しているけれど、キリスト教と自己啓発教の違いも、やはりそこに現れると思う。他者のための奉仕なのか、自己満足のための奉仕なのか――さてどっち。

2016年10月19日水曜日

カルトっぽい教会と「異端」の微妙な関係

■カルトっぽい教会は「異端」なのか

 カルトっぽい教会についてずっと書いている。
 時々いただく質問に、こんなのがある。
「カルトっぽい教会とはつまり異端なのですか?」

 カルト=異端(?)。

 カルトっぽい教会は多くの場合、HPなんかで「正統派キリスト教会」であるとうたっている。
 教会を実際に見に行ってみると、いろいろ整っていて、牧師もマトモなことを言うし(性格的に変な牧師はいる)、信徒たちも生き生きしているように見える。4世紀に異端認定されたアリウス派みたいなことは言わない。週報に使徒信条を掲載しているところもある。基本的に伝道熱心で、活動的で、数か月通ったくらいでは、特に問題があるとは感じない。むしろ人によっては「すごく良い教会だ」くらいに思うかもしれない。

  教義的には、たとえば福音派なら「聖書の無誤無謬」を支持するし、リベラル派はそれを支持しないし、など教派による違いがもちろんある。それは教派間の違いであって、「異端」とはならない。カルトっぽい教会は福音派が圧倒的に多いと思うけれど、一応その教派の基本ルールから逸れることは言わない。教派内の集まりにも積極的に参加する。
 だから、カルトっぽくても、異端とは関係ないことが多い、というのが実態だと思う。

■マトモっぽいが徐々に変質する

 では、カルトは異端ではないのか?
 私なりの結論を先に書くとこうなる。

「カルトっぽい教会は、きわめてマトモな形で始まり、運営されていく。 しかし徐々に変質し、最終的には、異端と変わらない状態になる」

  はじめはマトモなのである。あるいは長い期間マトモなのである。牧師は熱く、信徒は熱心で、いろいろな活動実績を重ね、うまく行けば、会堂や敷地を拡大し、それなりに一目置かれるようになる。あるいは地域で20年30年と歴史を重ね、それなりに市民権を得ている。それを見て「異端だ」と言う人は、たぶんいない。

 それがいつの頃からか「変質」しだす。ずっと同じように見えるんだけど、徐々に変化していく。内部の人間にはそれがわからない。絵の一部が徐々に変化していくクイズみたいなものだ。徐々に変化していくから、はじめからその「部分」に注目していないと、その変化が全然わからない。たとえどんなに大きく変化したとしても。

 何故そうなるのか? そのキッカケや始まりは、教会それぞれだと思う。たとえば牧師個人の問題が、時を経て次第に大きくなり、かつそれを制御する立場の人間が誰もいない、という状況があるかもしれない。あるいは(そんなことあってほしくないけれど)はじめから金目当てで教会を始める人間がいるかもしれない。
 いずれにせよはじめのうち、まだ力のないうちは、ごく普通のキリスト教会として運営している。地道に伝道し、信徒を手厚く世話し、教会会計と報告をちゃんとやる。「聖書の学び」にも熱心だ。異端とはほど遠い、「まっとうな教会」に見える。

■要注意ワード:真理の回復

「まっとうな教会」から「異端的教会」へと徐々に変質すると書いたけれど、その境目は曖昧だと思う。時期的にどこまでが「まっとう」で、どこからが「異端」なのか、後から振り返ってもたぶんわからない。
 でもその時期の特定には、あまり意味がないと思う。大事なのはその変化に気付くことであろう。

 私が思うに、その変化の兆候を示す言葉がある。
 たとえば「真理の回復」という言葉。牧師がこんなふうに言う。
「祈っていたら、霊のうちに深く語られた。そして、失われていた真理が私に示された。これは真理の回復だ」

 つまり、現代キリスト教において完全に失われている(忘れられている)聖書の真理があって、それが時を経て、なんと「この教会で」回復した、ハレルヤ、という理屈。 それでどんなことが回復したかと言うと、たとえば「霊の戦い」とか「和解の務め」とか、「預言的アクション」とか「ダビデの幕屋の礼拝」とか。そして、教会はそういう社会的逸脱行動に走るようになる。しかもその逸脱は「主のため」となる。

 それら一連の逸脱行動が即「異端」と判断されるかどうか、微妙なところがあるだろう。ぜひ公会議を開いて、偉い人たちで話し合ってほしいものだ。でも私からしたら、人々を非常識に走らせたり、過剰な労働や金銭を要求したり、暴力的に威圧したりするのにキリストの教えを利用している時点で、「異端」と同じだ。公なジャッジなど必要なく、即離れるべき教会だと思う。

 とりもなおさずカルトっぽい教会は、一見マトモに見えても、次第に言うことややることが逸脱的になっていく。「中の人たち」はその徐々な変化に気付かないので、ずっとマトモだと思っている。あるいは「真理が回復している」という自負やプライドを強く持っている。その逸脱は限りなく「異端」に近いと思う。「異端」でないにしても、害があるのは間違いない。

■特別な油注ぎ?

 最後に、これもまた「異端」かどうか曖昧な話だけれど、ひとつ思い出話を書く。

 私のかつての教会での話。
「某国に行って、〇〇の体験をし、特別な油注ぎを受けよう」みたいなことが、盛んに言われる時期があった。
 その○○は日本ではできず、某国に行ってしなければならない。その「特別な油注ぎ」を先に受けてきた人たちは、確かに何か変わったように見えた。同じころ、教会の礼拝スタイルも「革新的に」変わっていた。これは「真理の回復」に違いない、と教会内では思われた。そして皆その「特別な油注ぎ」がほしくて、安くないお金を払って、団体で某国に行くのだった。私もその中にいた。

  某国でのイロイロは書くと長いので省くけれど、日本への帰国の際、牧師から一つの注意点があった。こんなのだ。
「某国で受けた油注ぎは、非常に強力なものだ。これを受けて日本に帰る際、日本を支配する悪霊たちがそれに気づいて、私たちを攻撃してくるだろう。だから帰りの飛行機が日本の海域に入ったら、注意しなければならない。よく祈って備えるように」

 半分脅しみたいな話なんだけど、私たちは真に受けた。先に行った人たちの話も、それを裏付けていたからだ。
「帰りの飛行機で耳が異常に痛くなった」
「日本の領域に入ったとたん頭痛が激しくなった」
「日本の帰ったとき、自分が霊的に武装していることに気付いた」
 彼らはそう口々に言った。だから私たちは期待半分、不安半分で某国に行ったのだった。

 で、帰りの飛行機。日本に近づくにつれ、私は耳が痛くなった。それも半端ない痛み方だった。じっと座っていられなくて、吐きそうだった。でもその苦しみの中で嬉しい気持ちもあった。それだけ「強い油注ぎ」を受けたんだ、という自負があったからだ。
 で、日本に帰ってきた。それからどれだけ「力強い歩み」ができたかと言うと、これがさして変わらなかった。気分的には(しばらくは)高揚していたけれど、冷静に考えてみれば何も変わっていない。しかし、あれ、いったい何だったんだろう、と考える間もなく、教会はどんどん忙しくなっていく。そういうことをゆっくり考える間もなかった。

 今振り返ると、帰りの飛行機で起こった耳痛や頭痛は、いわゆる飛行機頭痛や航空性中耳炎で説明できたのではないかと思う。飛行機ではよくあることだけれど、私を含むほとんどの教会員は飛行機旅行なんて滅多にしなかったから、何か特別な体験だと思い込みやすかったのかもしれない。現に教会はもう解散しているから、「特別な油注ぎ」も何もない。

 これはほんの一例だ。日本ではできない特別な礼拝行為とか、特別な油注ぎとか、それが即「異端」かどうかは曖昧だろう。けれど、それで信徒に変な自負心やプライドを持たせたり、信徒を奉仕で忙殺する理由にしたり、明確な権威構造をつくって信徒を威圧したりするなら、それは「有害な教え」であろう。「異端」かどうかに関係なく、問題にしなければならないと思う。

2016年10月14日金曜日

ハロウィンまとめ(2016年版)

■今年もハロウィンの季節がやってきた

 さて今年もハロウィンの季節がやってきた。1年ぶりである(当たり前)。
 当ブログでは、「ハロウィンがプロテスタント系クリスチャンにとってどうなのか」という点で何度か記事を書いている。その中で、今でもよく読んでいただいているのがこちら。

→ハロウィンを悪魔崇拝と決めつけるクリスチャンの浅はかさ。

 要約すると、ハロウィンに悪魔崇拝の要素が隠れていると仮定(あくまで仮定)しても、当人に崇拝の意思がなければ、それは崇拝にはならない、ということ。たとえば保育園でハロウィンパーティが開催され、子供たちがお菓子やケーキや仮装やゲームを楽しんだとして、それはサタニストの集会じゃないし、それで子供たちがダミアンみたいになる訳でもないし、表でも裏でも悪魔を崇拝する具体的行為がなされている訳でもない。そういう無邪気なパーティの裏で「しめしめ、子供たちに無意識に悪魔崇拝させてやる。ケケケ」とか言ってる低レベルな悪魔がいるのなら、是非お目にかかりたい。
 というようなお話。

 で、今年もハロウィンの是非について、一部のクリスチャンの間で議論がなされている。
 議論されているけれど、基本的に「土台」の違う人たちどうしが議論していて、いつまでたっても並行線でしかないように思う。ハロウィン肯定派も否定派も、ハナから自分の意見(信仰?)を曲げる気がない。だから議論と言いつつ、あまり論理的な話し合いにはなっていない気がする。だから(私に言わせれば)、時間の無駄じゃないかなと思う。聖書解釈という「土台」が違うのだから。極端な例だけど、片方が宇宙の話をしていて、もう片方が海の話をしているようなもの、と言ったらわかりやすいだろうか。

 私個人は、ハロウィンは良いものでも悪いものでもなく、楽しむも楽しまないも、個人(あるいは教会)の自由でいいと思っている。ちなみに私はハロウィンだからと言って何かする習慣はない。心情的にも信仰的にも、賛成も反対もしない。
 歴史的にはもともと「収穫祭」だったものが、現代の商業ベースに乗っかって一般化し、大勢がパーティや仮装をすることで商業側が利潤を得る、というのが昨今のハロウィンの意味だと私は考えている。

■そこに無理やり悪魔が引き込まれている気がする

 ただ私が問題だと思っているのは、ハロウィンに「霊的」に悪魔が働いていて、ハロウィンを祝うと「呪われる」とか、「救いから漏れる」とか、そういうオカルトっぽい「脅迫」についてだ。

 まず「霊的」という時点で、私たちはだいぶ警戒しなければならない。「霊的」そのものを否定する気はないけれど、教会のカルト化が拡大しつつある昨今、「霊的」を主張する傾向には注意しなければならないと思っている。なぜならカルト化教会は、「霊的」という「判定しづらい指標」を好んで使うから。

 もしハロウィンに「霊的」に悪魔が働いていて、それを祝うことで「呪われる」と主張するなら、その実例なり統計データなりを一緒に提供するべきだと思う。これだけの被害が出ているから避けなければならない、という根拠付きの警告なら、有効だろう。
 でもそれ以前に、それが事実なら全国的に、いや世界的に既に問題になっているはずだ。たとえばディズニーランドのハロウィンの夜なんかは、毎年大変なことになっていなければならない。そういう話は全く聞かないけれど。

 次に「呪われる」というのが具体的にどういう状態なのか、そのへんもちゃんと説明しなければならない。呪われたらまずこうなって、次にこうなって、最後にこうなる、みたいな説明がないのは無責任ではないだろうか。そういう説明なく「呪われるぞ」だけなら、脅迫ととられても仕方がない。

 最後に、これは以前も書いたけれど、ハロウィンを祝うと「救いから漏れる」みたいなトンデモ論は本当に勘弁してほしいと思う。びっくりするくらいのトンデモ振りなので、もう一度それらを紹介してみよう。

・ハロウィンのトンデモ論①
カボチャが悪魔の出入り口になる!

 なんかカボチャという食べ物が、悪魔くんたちの出入り口になるらしい。てことはカボチャがなければアダムもエバも罪を犯すことなかったのにね!
 みんな、スーパーマーケットのカボチャ売り場には十分注意してね!(ウソ)

・ハロウィンのトンデモ論②
仮装するとクリスチャンじゃなくなる!

 なんか仮装すると、クリスチャンとしてのアイデンティティをなくしてしまうそうです。姿が変わって、神様から見えなくなるのかな? 神様ってそんな限定的な能力だったっけ?
 みんな、下手にイメチェンしたら、天国行けないかもよ?(ウソ)

・ハロウィンのトンデモ論③
上記をバラすと30日以内に悪魔に殺される!

 なんかジョン・ラミレスという「元サタニスト」によると、上記の話は悪魔界のトップシークレットで、それをバラしちゃったジョンさん、悪魔に「30日以内に殺す」って言われたみたいです。もう何年も前に。
 みんな、悪魔のトップシークレットを気軽にバラすなよ!(ウソ)

 と、いうようなトンデモ論を信じちゃう人は少ないと思うけれど、信じる人は信じるようだ。
 てことはカボチャ禁止の食生活になると思うけど、「すべての食べ物はきよい」と宣言された事実に、さっそく反しているような気がする。そのへんどう反論するつもりなんだろう。

■「イメージ」として教会に合わないのは間違いない

 べつにハロウィンを擁護するつもりはないけれど、ただの季節イベントなのにそこまで悪魔的背景を刷り込まれるのはかわいそうかなと思う。
 もっとも最近、墓場とか骸骨とか魔女とか、従来のハロウィンに比べて禍々しい表現が使われるようになったのも事実であろう。そういう方向で売り出されているから、今更変更できないんだと思う。だからハロウィンは今後ますます禍々しい表現をされるようになり、ますます(一部の)クリスチャンから「汚らわしい」みたいなことを言われるようになると思う。と、一応「先見」しておこう。

 先にハロウィンを祝うも祝わないも自由だと書いたけれど、上記のような「イメージ」の問題として、教会ではあんまりハロウィンはしない方がいいとも思っている。無害な仮装だけならまだしも、墓場や骸骨や魔女は(あくまでイメージとして)教会には合わないと思うからだ。
 もちろん自由だし、ただの「イメージ」や「気分」の話なんだけど。

 ただ間違ってもハロウィンを根拠なしに悪魔崇拝だとか、「霊的」にどうだとか、背後に悪魔が絡んでるとか、そういうことは言わない方がいいと思う。勘違いしないでほしい。あえて言えば、悪魔は私たちの日常に既に絡んでいる。だから今更ハロウィンだけ取り上げて悪魔がどうとか言うのも、おかしな話だと私は思う。

2016年10月11日火曜日

映画『ルーム』にみる、被害者を襲う二次被害

■映画『ルーム』の紹介

 まず映画『ルーム』を、ネタバレしつつ紹介したい。

 主人公の女性ジョイは、高校の時に見知らぬ男に拉致・監禁され、はや7年余りが過ぎている。監禁2年目に犯人の子供をみごもり、男児を出産。ジャックと名付けた。母子は狭い納屋の中、一見普通っぽい暮らしをしている。犯人は定期的に生活物資を届けにくる。
 そして今年、ジャックは5歳の誕生日を迎えた。物心ついたジャックをみて、ジョイは脱出の唯一のチャンスに、賭けることにした。


 予告編

 というあらすじ。ここから若干ネタバレだけれど、この映画は単なる「脱出モノ」ではない。もちろん手に汗握る脱出劇はあるけれど、それは映画中盤で早々に終わる(無事脱出できる)。後半は彼らの脱出後の姿を描いていて、実はそっちの方が興味深い。作り手のメッセージもそこにあるのではないかと私は思った。

  ジョイとジャックは無事に家族の元に戻る。事件は大々的に報道され、周囲は彼らの帰還を喜ぶ。しかしジョイもジャックも「外の世界」になかなか馴染めない。ジョイはまだいいけれど、ジャックにとっては全てが初めてであり、ジョイ以外の人間とまともに話すこともできない。いろいろ非常識なことをしてしまう。そんな我が子にジョイは苛立つ。というかイロイロなことに苛立つ(PTSDの症状だと思う)。母子関係はギクシャクしていく。
 そんな中、ジョイはテレビのインタビューを受けることになる。インタビュアーにこう問われ、彼女は絶句する。
「ジャックが生まれた時、彼だけでも外に出すべきだったのでは? きっと犯人もそれには応じたでしょう。そうすれば彼は普通に生きられたのでは?」

 ジョイは苦悩する。自分はジャックを必死に守って、愛して、育ててきたつもりだったけれど、間違っていたのか? と。そして、服毒自殺を図ってしまう。

■どこの世界でも、被害者は二次被害に遭う

 いわゆるセカンド・レイプについて何度か書いてきたけれど、こうやって被害者が「あとから」いろいろ責められるのは、それと同種だと思う。被害に遭ったはずなのに、その「遭い方」と「対処の仕方」について責められる。なんでこうしなかったんだ、もっとこうできただろう、ここに落ち度があったんだ、みたいな感じで。
 それは悲しいし腹立たしいことなんだけど、実際にはあちこちで同じようなことが起こっている。先日も電通の新人社員の自殺が過労死と認定されたけれど、それに対して「残業100時間くらいで自殺とは情けない」なんて耳を疑うような暴言もあった。そこには時間数だけで測れない事情があったはずだし、まして人が死んでいる事態なのに、そういう想像や配慮が働かない。そっちの方がよっぽど「情けない」と私は思う。

 また困ったことに、同じような二次被害が、カルト化教会の被害者にも起こっている。
 カルト的体質の教会内で、牧師の明らかな犯罪行為が行われる。やっとカルトだと気付いた信徒たちが、それを糾弾する。紆余曲折あってのち、牧師が何らかの制裁を受ける。もちろん受けない場合もあるし、信徒側が追放されて終わる場合もあるし、そこは何とも言えないけれど、とにかく制裁を受けるとする。牧師は教会を去ったり、訴訟を起こされたり、資格剥奪みたいな処分を受けたりする(そこもどうなるか何とも言えない)。

 それを傍から見ていた他教会の牧師や、あとから話だけ聞いた牧師なんかが、(一部だと思うけど)なにを血迷ったのか、こんなことを言いだす。
「牧師も間違いを犯すものなのに、なぜ赦さなかったんだ。赦すのが神の御心ではないか」
「これでは姦淫の現場で捕えられた女に石を投げるようなものだ。あなたがたの信仰はどこに行ったのだ」
「油注がれた者(ここでは牧師のこと)に手を出すなと聖書に書いてあるのに、なんてことをしてしまったのだ」
「牧師のために祈るのが信徒の役目だろう。なぜ最後まで祈って支えないんだ」

  私はこういうのを聞くと「はぁ?」としか思わない(思えない)。まったく事情がわからない立場でよくそんなこと言えるなと、その浅はかさに呆れてしまう。赦す赦さないの話なんかじゃないのに。被害を被害として訴えなければならない信徒たちの気持ちが全然わかっていない。牧師と信徒の単なるイザコザ、くらいにしか思っていないのだろう。

 でもこういうのはけっこうよくある話だ。それだけカルト化教会について認識がないのかもしれない。あるいは同じ牧師として、問題を起こしたっぽい牧師であっても擁護したいのかもしれない。だから信徒たちを責め、牧師の権威性や不可侵性ばかりを強調するのかもしれない。彼らは牧師を糾弾する信徒たちをみて、「牧師の苦労など何もわかっていない羊のくせに」などと平気で言う。

 でも「牧師の苦労」などと信徒の前で言ってしまったら、それこそ牧師としてオシマイだと私は思う。苦労する覚悟もなく牧師になったんですか? と逆に問いたくなる。

■何が「回復」で、何が二次被害を防ぐのか

『ルーム』の話に戻ると、ジョイの自殺未遂は失敗に終わる。そして長い入院生活のあと、ジャックと家族のもとに帰ってくる。そして長い長い、いつ終わるともしれない回復の過程を母子は歩むことになる。もっとも何が「回復」なのかもよくわからないのだけれど。自分の身にかつて何が起こり、現在何が起こっていて、これから先どうなるのか、実はよくわからないのだけれど。とにかくこの母子は、理解し支えてくれる人たちとともに、生きていくしかない。

 いろいろな犯罪の被害者たち(カルト化教会のそれも含む)は、皆そうなのかもしれない。結局のところ「答え」はなくて、いろいろなことがちゃんと把握できないまま、何かを目指して日々を生きていくしかないのかもしれない。それはすごく理不尽なことだけれど、かといってどうすることもできない。加害者が罰せられ、社会的制裁を受ければ、少しは気が晴れるかもしれない。しかし被害の記憶が消える訳ではない。なんともやるせない。

 被害者の気持ちは、たぶん被害者にしかわからない。だから不用意なことは言ってはいけないと思う。100%善意で言ったことが、もしかしたら100%セカンド・レイプになるかもしれない。だからなにか言いたかったら、想像力を総動員して、被害者の立場に立つ努力をすべきだと私は思う。それが唯一、二次被害から被害者を守りうる方法ではないだろうか。そしてそのように理解し受け入れようとしてくれる人々の中にこそ、被害者の「回復」の過程が、あるのかもしれない。

 映画『ルーム』を観て、そんなことを考えさせられた。

2016年10月8日土曜日

「神」に対する偶像崇拝

■「神」に対する偶像崇拝

 最近ハッとさせられるツィートを見た。以下がそれ。

「神」に対する偶像崇拝というものがある。自分にとって心地よく納得しやすい神概念に対する執着のことだ。

 あーこれはあるなぁと思った。
 当ブログでも似たようなことを書いたことがある。私はいくつかの記事の中で、この現象を「脳内神様」と呼んだ。自分の頭の中に、あるいは教会やクリスチャン仲間の間に、「神様はこういう人格の持ち主だ」という発想に基づく「神様像」がある。そしてその「神様像」に向かって祈り、賛美し、事あるごとに語りかけている。それが適切かどうかの吟味もなく。でもそれは「神ご自身」というより、「自分がイメージした神」であろう。両者の境界は曖昧かもしれないけれど。

 たしかに「神様」と呼びかけているし、聖書に示される神様を意識しているのは間違いないと思う。たしかに彼らは天地万物を創造した神、イスラエルをエジプトから導き出した神、キリストを地上に遣わした神を信じていて、その方に向かって祈っている。けれど、特に「人格面」において、自分自身の「神様像」が多分に混ざっていることにあまり気づいていない。その可能性について考えていない。そして何かについて祈る時、「神様はこういう方だからきっとこんな調子で、こんなことを語られるに違いない」みたいな想像を(意識的にか無意識的にか)働かせ、それを事実としてしまっている。
 それは神を崇拝しているようでいて、実は神というイメージを崇拝しているに過ぎない。
 つまり、「神」に対する偶像崇拝。

■神に対する過剰な人格化

 こうなってしまう原因の1つは、一部の教会群にみられる、「神に対する過剰な人格化」にあると思う。

 福音派や聖霊各派は「ディボーション」を推奨する教会が多い(推奨というより強要となっているところもある)。その目的の1つは「神と個人的関係を持つこと」「聖霊と親しく交わること」「主との親密な関係に入ること」とされている。だからそこの信徒はできるだけ毎日「ディボーション」して、「神と親しく語りあう」時間を持つ。皆がそうしているから自分もそうしなきゃ、とも思うだろう。「神様と親しく交わっている」ことが、ほとんどスタンダードとなっている。

 また「神様は人格のあるお方だ」とも教えられている。もちろんそれは間違っていないと思う。神には人格というか、固有のキャラクターみたいなものがあるはずだから。たとえば神が「父」と呼ばれ、キリストが「子」と呼ばれる以上、そこに人格的な繋がりがなければならない。でないと「父」とも「子」とも呼ばれない。
 問題はそこではなくて、神様と個人的に親しい関係をもつことができますよ、神様と会話を交わして「満たされた」時間を過ごすことができますよ、神様は尋ねられればフレンドリーにユーモアをもって答えてくれますよ、とさも簡単なことのように、神はアメリカ人的なフランクさをもって気軽に日常会話ができる相手だみたいに言ってしまっている点にあると思う。

 彼らが好むコンテンポラリーな賛美の歌詞を見ても 、それがわかる。

「神様は私の友達」
「神様はお父さん、イエス様はお兄さん」
「聖書は神様からのラブレター」

 1つ1つの表現は決して間違っていない。けれど、「神の人格」を意図的に、ある方向に形成する一因ともなっていると思う。あるいはそこまで明確な意図がなくても、そういう歌詞ばかり歌うことで、そういう人格化に流れていきやすいと思う。

 また聖書の「アバ父よ」という箇所から、「神様をお父ちゃんと呼びましょう」とか「神様は私のダディー」とか「天パパ」とか言い出して、(繰り返すけど決して間違いという訳ではない)神との個人的な「親しさ」を強調するきらいもある。

 聖書はけっこう無駄を省いた表現をしているから、たとえばキリストの言動や行動は沢山書いてあるけれど、そこから「こんな人格」「こんなキャラクター」と断定的に読み取るのはほとんど不可能ではないかと思う。キリストが泣いたことも怒ったことも笑顔を見せたことも書いてあるけれど、だからどんなキャラクターで、こういう時どういう反応をするか、何と言うか、みたいなことが目の前に浮かんでくるような、そんな書き方はされていない。想像することはできるけど、あくまで想像である。

「天の父」にしても同じことで、父であること以外、性格的なことはほとんど何もわからない。だからダディーとか天パパとか呼ぶのは自由だけど、だからって神様が「はーい何でちゅか?」とか答えるかどうかはわからない。

■神を理解する?

 もっとも神を勝手に人格化するのは、決して推奨すべきでないけど、そこまで問題というわけでもない。それが「脳内神様」でないと完全に言い切ることができるなら、もう勝手にどうぞだ。

 問題は、前述のように、「神様はこういう方だからきっとこんな調子で、こんなことを語られるに違いない」という自分の想像を、勝手に神の「御心」とか「導き」とか「計画」とか「啓示」とかにしてしまっている点にある。なんだか神様がとっても(自分にとって)親切で、フランクで、いつもニコニコしてて、困った時には(自分にとって)ジャストなタイミングで絶妙な配慮をしてくれて、まるで「いざって時に頼れるヤツ」みたいに考えている点だ。

 神様が本来どういうお方で、何をどう考えておられるか、ということを簡単に考えすぎだと思う。だいいち「神の御思いは海の砂より多い」みたいな表現が聖書にある通り、神様の思考を全部人間が理解できるはずがない。

 また私たちは生きていればイロイロな状況に遭遇する。いいことばかりではない。時には「何故だ」と思うことも起こる。残酷な出来事に直面するかもしれない(事実直面している)。なのに神様がいつも親切でフランクでニコニコしてるだけの存在だとしたら、相当矛盾している。 またタイムリーに劇的に助けてくれる方なら、なぜ残酷な事件や事故が起こって犠牲者が出るのだろうか。

 そもそもの話だけれど、「神の人格」を理解して「親しく交わろう」という出発点についてまず考えなければならない。また神を理解するとは何なのかということについて。
 ヨブは信仰熱心だったはずだけれど、苦しみに遭った時、「何故だ」となった。神を理解できなかったからだ。理解していたなら「何故だ」とは言わなかったはずだ。

 努力して理解できることなら別だけど、「神を理解する」のはそもそも努力でどうにかなるものとは私には思えない。わからないはわからないでいいと思う。無理に「親しい交わり」をしているつもりになって、神様とイチャイチャしてると思い込むよりは、わからないなりに信仰を続ける方がいいと思う。それで罰せられるということもないだろうし。

2016年10月5日水曜日

一貫性を持つことはクリスチャンとしても大切だと思う、という話

■一貫性を持つこと

 キリスト教信仰と直接関係ないけれど、私が常々心掛けているのは「一貫性を持つこと」である。
 それは無理やり聖書的表現をしてみれば、「安定した歩みをする」ということかもしれない。

 できるだけいつも同じスタンス、同じ立場で、これと決めたことを継続していきたい。始めたことを簡単に辞めたり、右と言ったのに気付くと左になっていたり、Aと言ったりBと言ったり、みたいなことは(できるだけ)したくない。いつも変わらない何かを持っていたい、と言ったらカッコつけすぎだろうけれど。

 でもマンネリとかワンパターンとかにはならないように、いわゆるソフト面では柔軟でありたい。改善できることがあるならしたい。いろいろ試すのも良いと思う。でもそういう表面的なことはともかく、向いている方向はいつも一緒、いつも変わらない、という一貫性を持っていたい。

 なんでこういう話をするかと言うと、これもまた教会時代の反省があるからだ。

■一貫性のなかった教会の話

 私の教会はとにかく活動が多かった。いろいろな「働き」が次々と始まり、ミーティングも頻繁に持たれ、数々の仕事(よく言えば奉仕)がスタッフたちにどんどん割り振られていくのだった。礼拝や祈り会なども毎日あった。みんな遅くまで教会に残って働き、徹夜や泊まり込みも珍しくなかった。

 と言っても、忙しいことに文句があるわけではなかった。私が不満だったのは、「始めたことが続かない」という状態についてだった。

 たとえばだけど、教会の一角で毎週英会話教室を開こう、と牧師が言い出すとする。そのためにスタッフが割り当てられて、チラシを作ったり地域に配ったり、一応教室っぽく整えたりと、希望をもって活動を始める。しばらくすると、(うまくいけば)生徒が何人か集まる。そして毎週何曜日の何時からか、楽しそうな英会話教室が始まる。担当者は「この教室から救われる魂が起こされるのが主のご計画だと思います。ハレルヤ♪」とか、期待に胸を膨らませて皆に話す。

 だけど突然、「○○の地域に伝道旅行に行くよう示された」とか牧師が言い出して、教会を挙げて〇〇に出向くことになる。英会話教室のスタッフも当然のようにそこに連れて行かれる。で、「今週の英会話教室はお休みです」となる。
 次に「海外でこれこれのカンファレンスがある。それには出なければならない。英語ができる人が必要だ」みたいな話になって、また英会話教室のスタッフが引っ張って行かれる。またまた「今週の英会話教室はお休みです」となる。
 で、帰ってくると、「今、実は△△のプロジェクトを始めるように主から促されている。君、担当してくれるか」とか牧師が言い出す。英会話教室のスタッフは、「主からのコーリング」ばかりは断れない。
 というわけで、「英会話教室は事情により閉じさせていただきます」となる。あれ、その教室から救われる魂が起こされるんじゃなかったっけ?

 というのはほんの一例で、似たようなことが沢山あった。なんだかんだで一つのことが継続しなかった。私はその一貫性のなさに違和感を覚えていた(言い出す勇気はなかったけれど)。
 ここで「主にそう導かれたんだから仕方ないだろ」みたいな反論をしたい人には、その英会話教室の生徒さんたちにそれをそのまま言ってもらいたい。「続けられないなら始めるな」と言われたら、どう反論するだろうか。「続けられるかどうか事前に計画せよ」みたいなことを聖書は言ってるんだけど。

 教会が神様にどう導かれたにせよ、その生徒さんたちにとって、その英会話教室が「証」にならなかったのは間違いない。そしてそれを神様のせいにするのは、教会に泥を塗るようなものではないかと私は思う。

■一貫性の有無は伝道にも影響する

 というような経緯から、私は一貫性を持つことが大切だと思っている。クリスチャンであればなおさらだとも思っている。

 べつに押し付ける気はないけれど、一度言ったことは続けるべきだと思う。そしてそれ以前に、続けられるかどうかをよくよく考えたうえで発言すべきだと思う。その目的や動機、どこを目指すのか、どんな方法で続けるのか、みたいなことは最低限考えて、本当にそれを始めるかどうか、自分の中で吟味することを強くお勧めする。

 話を急に小さくするけど、SNSでクリスチャンの皆さんを眺めていると、一部にそういう一貫性のなさを感じることがある。
 たとえば、アカウント名やアカウント画像を頻繁に変えたり、アカウントを削除したかと思えばいつの間にか別アカで復活していたり、辞めたり再開したり、Aと言ったりBと言ったり、なんか右往左往しているように見える。もちろん個人の好みや都合の範疇の話なんだけど、精神的な不安定さが見え隠れしているような気がしてならない。

 もっともそれらは悪いことではない。不安定さは誰にでもある。完全に安定した人もいない。またどんなことにも一貫性を持つべきだという話でもない。辞めるべきと思ったら、長引かせないで辞めた方がいい場合もある。いろいろな事情があるだろうから、一概に言うことはできない。

 しかしごく短期間でAと言ったりBと言ったり、辞めると言ったり辞めないと言ったり態度をコロコロ変えるのは、「落ち着きがない」と言われても仕方がないだろう。そしてそういう落ち着きのない、今日はこうでも明日はどうなるかわからないみたいな人が、「聖書はね」とか言っても、説得力がないだろうと私は思う。

 同じ福音を聞くにしても、聖書の講釈を聞くにしても、言うことややることがコロコロ変わる人から聞きたいか、そうでない人から聞きたいか。
 答えは明白ではないだろうか。

■「継続」することについて

 最後に「一貫性」に関連して、「継続」の話をしたい。

 何事かを継続することは、それを始めることより大変だ、とよく言われる。私はその通りだと思う。何かを始めることは案外簡単にできるけれど、それをずっと続けることは案外難しい。長くやっていれば、良い日もあれば悪い日もある。やる気が失せる日もある。もう辞めようかなと思う日も、度々あるだろう。

 このブログにしても同様で、詳しく書かないけれど、イロイロな時を経てきている。もう辞めようかな、と思ったことは今のところないけれど、何の意味があるかな、意義があるかな、と思ったことは多々ある。

 そう考えると、「一貫性を持つ」ということは、「何かを継続する」ということと、ほぼ同義なのではないかと思えてくる。もちろん一貫性を持つために何かを辞める、ということもあるかもしれないけれど。

 このブログを始めてまだ3年半だから偉そうに言えないけれど、「継続」するためのコツは、「とにかく続ける」ことにあると思う。身も蓋もない言い方だけど。
 とにかく続けないと、続かない。当たり前だけどこれこそ「真理」だと思う。すごく嫌な時でも、やる気が出ない時でも、無心になったりヤケになったりどうでもいいやと思ったりしながら、続ける。続けてみる。結果なんか知らない。というスタンスも時には必要だと思う。

 最後に気の利いた聖書箇所を披露できればいいんだけど、ちょっと思いつかないので、敬愛するマンガ『スラムダンク』から名言を引用して終わりにしたい。
「諦めたらそこで試合終了です」(安西先生)

2016年10月3日月曜日

聖書解釈のガラパゴス化

■聖書解釈のガラパゴス化

 まずは「ガラパゴス化」の意味をwikipediaから引用してみる。

 ガラパゴス化(ガラパゴスか、Galapagosization)とは日本で生まれたビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部(外国)から適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い種(製品・技術)が導入されると最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である。ガラパゴス現象(Galápagos Syndrome)とも言う。(Wikipedia)

 引用終わり。

 日本の一部の教会群やクリスチャン群で、「聖書解釈のガラパゴス化」が起こっていると思う。
 なぜかと言うと、前回の記事(カルトっぽい教会の特徴)でも挙げたけれど、彼らが「自分たちこそ正しい」と信じて1ミリも疑っていないからだ。そしてキリスト教信仰において「自分たちが正しい」を貫き通すと、結果次のような思考過程をたどるからだ。

①自分たちは「真理」をまちがいなく知っている。しかし他の教会や他のクリスチャンたちは知らない。

②なぜなら彼らは「霊的に」目覚めていないから。かわいそうだけど。

③だから、目覚めていない人たちの話を聞く必要はない(聞いてはならない)。信仰書とかネットとかも同じ。

④自分たちの集いの中でのみ、聖霊が特別に「真理」を語られる。だから私たちはどんどん「真理」に進むことができる。

⑤なぜなら、私たちは主に特別に愛されているから。特別な「エクレシア」だから。

⑥結果、他の教会や他のクリスチャンたちには「霊的に」到底理解できない「深み」に、私たちは導き入れられていく。

⑦だから私たちのことが理解されなくても、それは仕方のないことだ。私たちは「真理」を知りすぎているのだから。

⑧預言者たちもキリストご自身も迫害された。私たちも先進的ゆえ、苦難を通らされるのだ(でも最後は勝利する!)


ツッコミ)
 でもそれ、傍から見ると単なる「ガラパゴス化信仰」なんですけど。

■見当ちがいな「研究熱心」

 彼らは非常に熱心である。聖書を毎日読むし、よく祈るし、よく「学び」に参加するし、海外の大物がくればピラニアみたいに食いついて感想をSNSにアップして「主に感謝♪」とかつぶやく。独自の聖書研究も欠かさないし、時々そういうのをつぶやいて「いいね」されて嬉しそうにしている。いろんなカンファレンスとかキャンプとかミーティングとか会議とかセミナーとかにもよく参加して、参加したなら集中してればいいのに、「今〇〇してます」とか逐一報告する。なんのアピールだか知らないけど。

 熱心なのは認めるし、いろいろ「学んで」見聞なり理解なりを深めたいという動機もわかるけれど、それらの「学び」には致命的な弱点がある。自分の聖書解釈と同じ立場に立つ人々の話を聞くことにしかならない、という点だ。

 どれだけ「学び」に参加し、えらい先生のありがたいお話を拝聴し、各地で開かれるカンファレンスやキャンプやミーティングや会議やセミナーに出向き、たくさん「学んだ」としても、それは自分の聖書解釈を補強し、突き詰めていくことにしかならない。なぜなら同じ聖書解釈をしている人たちの集まりでしかないからだ。そういう「学び」は多くの場合、たとえばAかBかCかで解釈がわかれる部分の話でなく、Aについてアレコレ掘り返していくだけで、解釈におけるBもCもはじめからガン無視である。それは学習を深めていこうというスタンスではない。

 わかりやすく例示してみよう。
 あなたが選挙で投票するとして、 A党やB党やC党やD党があるとする。あまり政治に詳しくなく、各党の主張も政策もよくわからないとしたら、あなたはどうやって投票先を決めるだろうか。あまり考えず、見た目やフィーリングで決める人もいるかもしれないけれど、おそらく一般的には、各党の主張や政策や、政党規模や実績や実行力などをみて、比較検討することだろう。できるだけ偏りなく情報を集めて選びたい、と考えると思う。その意味で、政党について一応研究することになる。

 しかし上記の人たちの「聖書研究」は、選挙の例で言えばはじめからA党に投票すると決めていて、実はB党やC党やD党が何を言っているのか全然知らない、みたいな状態だ。すなわち他教派の聖書解釈や考え方を実は全然知らないのに、なんの根拠もなく(あるいは自分の感覚のみで)「自分たちこそ正しい」と豪語してしまっているようなものだ。

■信仰っぽいマスターベーション

「聖書研究」とは、本来ならキリスト教の歴史を学ぶことや、いろいろな教派に枝分かれしてきた経緯や理由、各教派の特徴や考え方、聖典礼(秘跡)の違いや在り方、などから始めるべきだと思う。つまり多くの先人が残してくれたものに敬意を持つことがスタートだと思う。しかし一部のクリスチャンは、信じて間もないのに「わかったつもり」になっていたり、先人たちが教勢を拡大できなかったことに平気でダメ出ししたり、聖書のある箇所を「これはこういう意味だ」としたり顔で解説したりしている。

 そして自分たちは聖書の「学び」に励んでいるつもりだけれど、それが前述の通り、自分の聖書解釈を補強し、突き詰めることにしかなっていない。自分が信じている1つの解釈(1つの可能性)を正当とするため、そして確かなものとするため、聖書箇所をたくさん引っ張ってきては、これはこういう意味だ、あれはこういう意味だ、ここにこう書いてある、ほらこうでしょう、と捏ね繰り回す。ある人はそれを「信仰っぽいマスターベーション」と言ったけれど、まさにその通り。

 で、結果的にそれは「聖書解釈のガラパゴス化」を招くことになる。
 自分の聖書解釈を「閉じたサークル」の中でグリグリ捏ね繰り回し、あーでもないこーでもないを続けていれば、いつしか最初の姿とは似ても似つかない姿になる。
 そのガラパゴス化は一朝一夕では起こらない。時間をかけて、少しずつ変化していく。しかし長い時間が経つと、その変化は、時にとんでもなく大きなものになる。はじめはわりとまともな聖書解釈をしていた牧師が、いつの間にかトンデモ論に走っていた、なんてケースは少なくない。

 最後に、そんなトンデモ論をいくつか紹介して(ツッコミ付き)、注意喚起としつつ終わりたいと思う。

■信仰っぽいトンデモ論

・人形には悪魔が宿る。人形を身近に置いてはいけない。
 →ホラー映画観すぎでしょ。

・クリスチャンには守護天使がついていて、信仰に進めば進むほど、上位の天使がつく。ちなみに私にはミカエルがついている。
→じゃあ何があっても安心ですね!

・失われた「契約の箱」が、実はイスラエルで発掘されている。それを中心に礼拝を捧げることで、主が力強く働かれるだろう。
 →インディ・ジョーンズに連絡しましょうか。

・(数年前の話)アメリカに主の裁きの火が注がれる! 彼らが悔い改めるように私が行かねば!
→何も起こらなかったから、アメリカ人がみんな悔い改めたんですね!

・墓地は死者の世界の入口だ。日本は住宅街の至るところに墓地がある。だから日本は霊的に圧迫されてるんだ。
→うわーそれは大変ですねー(棒読み)。

 終わり。まだまだトンデモ論募集中です(ウソです)。