2016年10月3日月曜日

聖書解釈のガラパゴス化

■聖書解釈のガラパゴス化

 まずは「ガラパゴス化」の意味をwikipediaから引用してみる。

 ガラパゴス化(ガラパゴスか、Galapagosization)とは日本で生まれたビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部(外国)から適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い種(製品・技術)が導入されると最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である。ガラパゴス現象(Galápagos Syndrome)とも言う。(Wikipedia)

 引用終わり。

 日本の一部の教会群やクリスチャン群で、「聖書解釈のガラパゴス化」が起こっていると思う。
 なぜかと言うと、前回の記事(カルトっぽい教会の特徴)でも挙げたけれど、彼らが「自分たちこそ正しい」と信じて1ミリも疑っていないからだ。そしてキリスト教信仰において「自分たちが正しい」を貫き通すと、結果次のような思考過程をたどるからだ。

①自分たちは「真理」をまちがいなく知っている。しかし他の教会や他のクリスチャンたちは知らない。

②なぜなら彼らは「霊的に」目覚めていないから。かわいそうだけど。

③だから、目覚めていない人たちの話を聞く必要はない(聞いてはならない)。信仰書とかネットとかも同じ。

④自分たちの集いの中でのみ、聖霊が特別に「真理」を語られる。だから私たちはどんどん「真理」に進むことができる。

⑤なぜなら、私たちは主に特別に愛されているから。特別な「エクレシア」だから。

⑥結果、他の教会や他のクリスチャンたちには「霊的に」到底理解できない「深み」に、私たちは導き入れられていく。

⑦だから私たちのことが理解されなくても、それは仕方のないことだ。私たちは「真理」を知りすぎているのだから。

⑧預言者たちもキリストご自身も迫害された。私たちも先進的ゆえ、苦難を通らされるのだ(でも最後は勝利する!)


ツッコミ)
 でもそれ、傍から見ると単なる「ガラパゴス化信仰」なんですけど。

■見当ちがいな「研究熱心」

 彼らは非常に熱心である。聖書を毎日読むし、よく祈るし、よく「学び」に参加するし、海外の大物がくればピラニアみたいに食いついて感想をSNSにアップして「主に感謝♪」とかつぶやく。独自の聖書研究も欠かさないし、時々そういうのをつぶやいて「いいね」されて嬉しそうにしている。いろんなカンファレンスとかキャンプとかミーティングとか会議とかセミナーとかにもよく参加して、参加したなら集中してればいいのに、「今〇〇してます」とか逐一報告する。なんのアピールだか知らないけど。

 熱心なのは認めるし、いろいろ「学んで」見聞なり理解なりを深めたいという動機もわかるけれど、それらの「学び」には致命的な弱点がある。自分の聖書解釈と同じ立場に立つ人々の話を聞くことにしかならない、という点だ。

 どれだけ「学び」に参加し、えらい先生のありがたいお話を拝聴し、各地で開かれるカンファレンスやキャンプやミーティングや会議やセミナーに出向き、たくさん「学んだ」としても、それは自分の聖書解釈を補強し、突き詰めていくことにしかならない。なぜなら同じ聖書解釈をしている人たちの集まりでしかないからだ。そういう「学び」は多くの場合、たとえばAかBかCかで解釈がわかれる部分の話でなく、Aについてアレコレ掘り返していくだけで、解釈におけるBもCもはじめからガン無視である。それは学習を深めていこうというスタンスではない。

 わかりやすく例示してみよう。
 あなたが選挙で投票するとして、 A党やB党やC党やD党があるとする。あまり政治に詳しくなく、各党の主張も政策もよくわからないとしたら、あなたはどうやって投票先を決めるだろうか。あまり考えず、見た目やフィーリングで決める人もいるかもしれないけれど、おそらく一般的には、各党の主張や政策や、政党規模や実績や実行力などをみて、比較検討することだろう。できるだけ偏りなく情報を集めて選びたい、と考えると思う。その意味で、政党について一応研究することになる。

 しかし上記の人たちの「聖書研究」は、選挙の例で言えばはじめからA党に投票すると決めていて、実はB党やC党やD党が何を言っているのか全然知らない、みたいな状態だ。すなわち他教派の聖書解釈や考え方を実は全然知らないのに、なんの根拠もなく(あるいは自分の感覚のみで)「自分たちこそ正しい」と豪語してしまっているようなものだ。

■信仰っぽいマスターベーション

「聖書研究」とは、本来ならキリスト教の歴史を学ぶことや、いろいろな教派に枝分かれしてきた経緯や理由、各教派の特徴や考え方、聖典礼(秘跡)の違いや在り方、などから始めるべきだと思う。つまり多くの先人が残してくれたものに敬意を持つことがスタートだと思う。しかし一部のクリスチャンは、信じて間もないのに「わかったつもり」になっていたり、先人たちが教勢を拡大できなかったことに平気でダメ出ししたり、聖書のある箇所を「これはこういう意味だ」としたり顔で解説したりしている。

 そして自分たちは聖書の「学び」に励んでいるつもりだけれど、それが前述の通り、自分の聖書解釈を補強し、突き詰めることにしかなっていない。自分が信じている1つの解釈(1つの可能性)を正当とするため、そして確かなものとするため、聖書箇所をたくさん引っ張ってきては、これはこういう意味だ、あれはこういう意味だ、ここにこう書いてある、ほらこうでしょう、と捏ね繰り回す。ある人はそれを「信仰っぽいマスターベーション」と言ったけれど、まさにその通り。

 で、結果的にそれは「聖書解釈のガラパゴス化」を招くことになる。
 自分の聖書解釈を「閉じたサークル」の中でグリグリ捏ね繰り回し、あーでもないこーでもないを続けていれば、いつしか最初の姿とは似ても似つかない姿になる。
 そのガラパゴス化は一朝一夕では起こらない。時間をかけて、少しずつ変化していく。しかし長い時間が経つと、その変化は、時にとんでもなく大きなものになる。はじめはわりとまともな聖書解釈をしていた牧師が、いつの間にかトンデモ論に走っていた、なんてケースは少なくない。

 最後に、そんなトンデモ論をいくつか紹介して(ツッコミ付き)、注意喚起としつつ終わりたいと思う。

■信仰っぽいトンデモ論

・人形には悪魔が宿る。人形を身近に置いてはいけない。
 →ホラー映画観すぎでしょ。

・クリスチャンには守護天使がついていて、信仰に進めば進むほど、上位の天使がつく。ちなみに私にはミカエルがついている。
→じゃあ何があっても安心ですね!

・失われた「契約の箱」が、実はイスラエルで発掘されている。それを中心に礼拝を捧げることで、主が力強く働かれるだろう。
 →インディ・ジョーンズに連絡しましょうか。

・(数年前の話)アメリカに主の裁きの火が注がれる! 彼らが悔い改めるように私が行かねば!
→何も起こらなかったから、アメリカ人がみんな悔い改めたんですね!

・墓地は死者の世界の入口だ。日本は住宅街の至るところに墓地がある。だから日本は霊的に圧迫されてるんだ。
→うわーそれは大変ですねー(棒読み)。

 終わり。まだまだトンデモ論募集中です(ウソです)。

1 件のコメント:

  1. |「聖書研究」とは、本来ならキリスト教の歴史を学ぶことや、いろいろな教派に枝分かれしてきた経緯や理由、各教派の特徴や考え方、聖典礼(秘跡)の違いや在り方、などから始めるべきだと思う。つまり多くの先人が残してくれたものに敬意を持つことがスタートだと思う。


    いまアキバ系に人気の漫画に「がっこうぐらし!」というのがあるのですが、

    第7巻の第38話に、それまでの居場所を離れて大学という場所にやってきたヒロインたちを、攻撃という形で出迎えた「武闘派」というグループについて、もうひとつのグループのリーダーである「トーコ」が「あいつらも悪いやつじゃないんだけど」と説明したり、

    第40話ではトーコが武闘派と会談を持ったことをヒロインのひとりに伝えたあと、「でもさ、あっちに行ってもいいんだよ」と語ったくだりがあって、

    自分たち以外の人間が、何らかの理由でほとんどゾンビ化したと認識される世界、
    そのなかで生きぬこうとするヒロインたちを描くストーリーにおいて、立場の違いを理解して共存しようとするトーコの、
    ゆるい面もあるけど、それでも争いを避けたいという思いに、私は共感できるわけです。


    確かに、新旧教派の比較は大変で、お初にすべて理解させるのは困難、つか無理。
    もっと言えば、誰でも福音をそのひとに語った以上、自分のところに引き込みたい、
    よそのことは本当には知らないし、それに転居を除いて、教会を異動するというやり方も、ほとんど説明されない。
    異動したひとがリベラル大教会の信徒に、よく移れたねと言われたという話も聞いたし、
    よその教会に救いがあるとしたら、なぜそこを選ばなかったのか、という問いかけがありそうだ。
    だのに、牧師信徒がほとんど変わっていないのに、礼拝のやり方や伝道方針に手法が劇的に変わるというのは現実にある。
    納得できないひとに新しい道も示さずに、ついていけないのは聖霊に満たされていないからだとほざく牧師教会員は、
    自分同様、霊的にそのひとをダメにしていると言えるでしょう。
    信仰的思想的な問題以外にも人間関係でもそういう問題は起きるし、信徒の活動ひとつでも、やってよいか否かは教会で決まるし。

    具体的には、昔ながらの讃美歌がよければ、讃美歌54年版を採用する教会を紹介し、
    クリスチャンミュージックがよければ、福音派を名乗る新興宗教系プロテスタント教会に行くのも止めてはいけない、
    ブラックゴスペルのグループが盛んな教会があって、そこに行きたければ、認める、
    礼拝の後の交わり会だって、スポーツや「さんび」だけではなくて、ボードゲームだって悪くはないだろう、それで来る人もいるかもしれない。
    つか、原語聖書とか英訳聖書の読書会だって、本来教会がやるべき学習ではないだろうか。

    そうして、やりたいこと歌いたい歌で教会を決めて、お互い認め合う、


    まさに、みんな違ってみんないい、がよくはないですかね?

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