カリスマ派という教派の話でなく、いわゆる「カリスマ牧師」というのがいる。
しつこいようだが、カリスマ派の話ではない。
カリスマ牧師とは、わかりやすく日本語で言うと、「信徒を強く魅了する牧師」「魅力的な牧師」「デキる牧師」である。各教派の詳しい事情は知らないけれど、福音派・聖霊派に限って言えば、牧師としての成功は、この「カリスマ性」の有無と深く関係している(と思う)。
彼らカリスマ牧師は、何かしらの「魅力」を持っている。
と言っても牧師としての魅力だから、必ずしも外見的なものばかりではない。むしろ外見でなく、内面的(あるいは能力的)魅力の方が多いかもしれない。たとえば彼らの多くは、感動的な説教をすることができる。言葉巧みに人心を掴み、影響を与えることができる。日常的な言動や行動がスマートで、随所に賢さを見せる。大胆、かつ慎重である。「ためになる話」を沢山知っていて、ちょっと思いつかないような発想、視点、思考パターンを持っている。そしてそれらを惜しみなく提供してくれる。
昨今はいろんな業界に「○○のカリスマ」というのがいるけれど、要はその牧師版である。
と言っても牧師としての魅力だから、必ずしも外見的なものばかりではない。むしろ外見でなく、内面的(あるいは能力的)魅力の方が多いかもしれない。たとえば彼らの多くは、感動的な説教をすることができる。言葉巧みに人心を掴み、影響を与えることができる。日常的な言動や行動がスマートで、随所に賢さを見せる。大胆、かつ慎重である。「ためになる話」を沢山知っていて、ちょっと思いつかないような発想、視点、思考パターンを持っている。そしてそれらを惜しみなく提供してくれる。
昨今はいろんな業界に「○○のカリスマ」というのがいるけれど、要はその牧師版である。
カリスマ牧師の説教や話を聞くと、多くの人は「へえそうか」とか、「なるほどね」とか、「そうだよね」とかいう肯定的な反応をする。それだけ弁が立つからだ。聴衆は牧師の話によって何かを気付かされたり、教えられたり、あるいはリアルタイムの困り事に対する有効なヒントを得たりする。結果、「聞いて良かった」となる。そして「さすが牧師だ」「この先生は神の知恵に満ちている」みたいな感想なり印象なりを持つようになる。そういうことが続いて、熱心なファン(信者)ができていく。
一例を挙げてみよう。
たとえば教会で「NPO法人を立ち上げよう」という話になる。しかし誰もそんな事務手続きをしたことがない。で、とりあえず信徒のAさんが担当者となる(そう牧師から言われる)。しかしAさんは自信がない。そして法人設立に必要な諸々の書類をチラ見しただけで、「自分には無理だ。用語がまず全然わからない」となる。また設立に時間がかかったり失敗したりするのを恐れ、「できません」と辞退を申し出る。そこで牧師の話術が繰り出される。
「やる前からできないと言ったら、できるものもできない。まずはできると信じることから始めなさい。そして実際に自分にできる部分からコツコツと進めていきなさい。一歩ずつでいいから。作業の全行程を見て失望するのでなく、自分にできる一歩にまず集中しなさい。そういう積極的思考を、聖書は推奨している」
そこまで言われると断れなくて、Aさんは渋々作業を始める。案の定いろいろ難攻して、失敗と訂正を繰り返す。でもそんなこんなで進め、1ヶ月、2ヶ月と経つうち、書類がなんとなく揃っていく。そして無事に受理されて、一段落となる。
あれ、できないって思ってたけど、できたんだな、という実感をAさんは持つ。そこでまた牧師が登場。
「ほら、言った通りだろう。できないと言ったら何もできないんだ。でもそこで発想の逆転が必要なんだ。できると思えば、私たちは何でもできるんだ。聖書でパウロ先生も、私たちにはどんなことでもできると言っているだろう。だから私たちは信仰をもって何にでもチャレンジすべきなんだ。またそうして成長することが、神の御心でもあるんだ」
Aさんはその通りだなあと思って、自分の「成長」を喜ぶ。そしてそういう風に教え導いてくれた牧師に感謝し、心酔するようになる。そうなると、今度からAさんは牧師の教えにハイハイ、フンフン、となって、もう異論も疑問も持たないようになっていく(つまり、実体験をもって魅了されたということ)。
またそうやって牧師に教えられていろいろできるようになったり、挑戦して成功したり、その過程で知識や見聞を広めたり、という「成功体験」を、「神にある成長」と捉えるようになる。
■カリスマ牧師が提供する、キリスト教っぽい「自己啓発教」
でもNPO法人の例で言えば、たしかに書類の準備はいろいろ面倒だけれど、窓口に行って聞いたり相談したりすれば、何となくできるものだ。「難しそう」というイメージがハードルになっているとは思うけれど。またもちろんその経験は実務力のアップに繋がるし、まったく無駄ではないし、ある意味「成長」には間違いないのだけれど。
でも牧師の話に出てきた「積極的思考」とか、「発想の逆転」とか、「成功体験の積み重ねによる自己効力感」とか、「『できる』と思わせる自己暗示的手法」とかいうのは、いわゆる「自己啓発本のウンチク」の集合体である。うまく聖書の記述を当てはめたとしても、それがイコール聖書信仰になるのではない。
これは、自己啓発を否定する話ではない。自己啓発本を利用することで、より生きやすくなった、というケースだってあるだろう。仕事がしやすくなったとか、人間関係が良くなったとか、気持ちが楽になったとか、自己肯定できるようになったとか、ストレスが減ったとか、そういう良い効果だってきっとあるに違いない。
ただ私が言いたいのは、自己啓発とキリスト教の混合みたいな信仰のスタイルを「正統派キリスト教」と言うのは違うんじゃないんですか、ということだ。
しかし一部の教会では、上記のようなカリスマ牧師の「ありがたいお話」が氾濫している。大変知恵深く、かつ斬新な発想の数々が牧師の口から飛び出して、信徒の皆さんもへへぇ~ってなってるんだけど、大抵の話はどこかの自己啓発本から拾ってきたウンチクに「キリスト教風味つけ」をしたに過ぎない。企業だったらそれでもいいんだろうけれど。
私が知る限り、そういうキリスト教っぽい「自己啓発教」を展開するのは福音派・聖霊派の「カリスマ牧師」に圧倒的に多い。
カリスマ牧師は必然的に、有名牧師となり、人気牧師となる(なりやすい)。だから内外に発言力を持つし、影響力を持つ。その一因は彼らの「他では聞けないありがたいお話」にある。他で得られない何かを持っているから、人が集まるのである。でその「何か」というのが、大抵は自己啓発関連なのである。
だから純粋にキリスト教を信奉しているつもりの信徒の人が、実はキリスト教っぽい自己啓発教に熱心になっている、という事態が起こる。
自己啓発とは、「〇〇すれば自分も△△になれる」という自己鍛錬であり、自己報酬を目指した個人の努力に他ならない。簡単に言えば「自分のために頑張る」ということだ。繰り返すけれど、それが悪いということではない。むしろ自分を磨く努力も大切だと思う。けれどベクトルが他者(あるいは神)でなく自己に向いている点で、つまりそもそもの出発点で、キリスト教が目指すものとは乖離していると私は思う。
また何度も「キリスト教っぽい自己啓発教」と書いている通り、それは一見、キリスト教信仰っぽく見える。あるいは現代風キリスト教、先進的キリスト教、みたいに映るかもしれない。良い印象さえあるだろう。けれどやっていることは自己啓発であり、結果的に「自分のため」のものなので、他者に無償の愛を示すべきキリスト教とは、どこかで相容れなくなるだろう。
聖書は「実で判断する」という考え方を示しているけれど、キリスト教と自己啓発教の違いも、やはりそこに現れると思う。他者のための奉仕なのか、自己満足のための奉仕なのか――さてどっち。
たとえば教会で「NPO法人を立ち上げよう」という話になる。しかし誰もそんな事務手続きをしたことがない。で、とりあえず信徒のAさんが担当者となる(そう牧師から言われる)。しかしAさんは自信がない。そして法人設立に必要な諸々の書類をチラ見しただけで、「自分には無理だ。用語がまず全然わからない」となる。また設立に時間がかかったり失敗したりするのを恐れ、「できません」と辞退を申し出る。そこで牧師の話術が繰り出される。
「やる前からできないと言ったら、できるものもできない。まずはできると信じることから始めなさい。そして実際に自分にできる部分からコツコツと進めていきなさい。一歩ずつでいいから。作業の全行程を見て失望するのでなく、自分にできる一歩にまず集中しなさい。そういう積極的思考を、聖書は推奨している」
そこまで言われると断れなくて、Aさんは渋々作業を始める。案の定いろいろ難攻して、失敗と訂正を繰り返す。でもそんなこんなで進め、1ヶ月、2ヶ月と経つうち、書類がなんとなく揃っていく。そして無事に受理されて、一段落となる。
あれ、できないって思ってたけど、できたんだな、という実感をAさんは持つ。そこでまた牧師が登場。
「ほら、言った通りだろう。できないと言ったら何もできないんだ。でもそこで発想の逆転が必要なんだ。できると思えば、私たちは何でもできるんだ。聖書でパウロ先生も、私たちにはどんなことでもできると言っているだろう。だから私たちは信仰をもって何にでもチャレンジすべきなんだ。またそうして成長することが、神の御心でもあるんだ」
Aさんはその通りだなあと思って、自分の「成長」を喜ぶ。そしてそういう風に教え導いてくれた牧師に感謝し、心酔するようになる。そうなると、今度からAさんは牧師の教えにハイハイ、フンフン、となって、もう異論も疑問も持たないようになっていく(つまり、実体験をもって魅了されたということ)。
またそうやって牧師に教えられていろいろできるようになったり、挑戦して成功したり、その過程で知識や見聞を広めたり、という「成功体験」を、「神にある成長」と捉えるようになる。
■カリスマ牧師が提供する、キリスト教っぽい「自己啓発教」
でもNPO法人の例で言えば、たしかに書類の準備はいろいろ面倒だけれど、窓口に行って聞いたり相談したりすれば、何となくできるものだ。「難しそう」というイメージがハードルになっているとは思うけれど。またもちろんその経験は実務力のアップに繋がるし、まったく無駄ではないし、ある意味「成長」には間違いないのだけれど。
でも牧師の話に出てきた「積極的思考」とか、「発想の逆転」とか、「成功体験の積み重ねによる自己効力感」とか、「『できる』と思わせる自己暗示的手法」とかいうのは、いわゆる「自己啓発本のウンチク」の集合体である。うまく聖書の記述を当てはめたとしても、それがイコール聖書信仰になるのではない。
これは、自己啓発を否定する話ではない。自己啓発本を利用することで、より生きやすくなった、というケースだってあるだろう。仕事がしやすくなったとか、人間関係が良くなったとか、気持ちが楽になったとか、自己肯定できるようになったとか、ストレスが減ったとか、そういう良い効果だってきっとあるに違いない。
ただ私が言いたいのは、自己啓発とキリスト教の混合みたいな信仰のスタイルを「正統派キリスト教」と言うのは違うんじゃないんですか、ということだ。
しかし一部の教会では、上記のようなカリスマ牧師の「ありがたいお話」が氾濫している。大変知恵深く、かつ斬新な発想の数々が牧師の口から飛び出して、信徒の皆さんもへへぇ~ってなってるんだけど、大抵の話はどこかの自己啓発本から拾ってきたウンチクに「キリスト教風味つけ」をしたに過ぎない。企業だったらそれでもいいんだろうけれど。
私が知る限り、そういうキリスト教っぽい「自己啓発教」を展開するのは福音派・聖霊派の「カリスマ牧師」に圧倒的に多い。
カリスマ牧師は必然的に、有名牧師となり、人気牧師となる(なりやすい)。だから内外に発言力を持つし、影響力を持つ。その一因は彼らの「他では聞けないありがたいお話」にある。他で得られない何かを持っているから、人が集まるのである。でその「何か」というのが、大抵は自己啓発関連なのである。
だから純粋にキリスト教を信奉しているつもりの信徒の人が、実はキリスト教っぽい自己啓発教に熱心になっている、という事態が起こる。
自己啓発とは、「〇〇すれば自分も△△になれる」という自己鍛錬であり、自己報酬を目指した個人の努力に他ならない。簡単に言えば「自分のために頑張る」ということだ。繰り返すけれど、それが悪いということではない。むしろ自分を磨く努力も大切だと思う。けれどベクトルが他者(あるいは神)でなく自己に向いている点で、つまりそもそもの出発点で、キリスト教が目指すものとは乖離していると私は思う。
また何度も「キリスト教っぽい自己啓発教」と書いている通り、それは一見、キリスト教信仰っぽく見える。あるいは現代風キリスト教、先進的キリスト教、みたいに映るかもしれない。良い印象さえあるだろう。けれどやっていることは自己啓発であり、結果的に「自分のため」のものなので、他者に無償の愛を示すべきキリスト教とは、どこかで相容れなくなるだろう。
聖書は「実で判断する」という考え方を示しているけれど、キリスト教と自己啓発教の違いも、やはりそこに現れると思う。他者のための奉仕なのか、自己満足のための奉仕なのか――さてどっち。
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