最近ハッとさせられるツィートを見た。以下がそれ。
「神」に対する偶像崇拝というものがある。自分にとって心地よく納得しやすい神概念に対する執着のことだ。
あーこれはあるなぁと思った。
当ブログでも似たようなことを書いたことがある。私はいくつかの記事の中で、この現象を「脳内神様」と呼んだ。自分の頭の中に、あるいは教会やクリスチャン仲間の間に、「神様はこういう人格の持ち主だ」という発想に基づく「神様像」がある。そしてその「神様像」に向かって祈り、賛美し、事あるごとに語りかけている。それが適切かどうかの吟味もなく。でもそれは「神ご自身」というより、「自分がイメージした神」であろう。両者の境界は曖昧かもしれないけれど。
「神」に対する偶像崇拝というものがある。自分にとって心地よく納得しやすい神概念に対する執着のことだ。
あーこれはあるなぁと思った。
当ブログでも似たようなことを書いたことがある。私はいくつかの記事の中で、この現象を「脳内神様」と呼んだ。自分の頭の中に、あるいは教会やクリスチャン仲間の間に、「神様はこういう人格の持ち主だ」という発想に基づく「神様像」がある。そしてその「神様像」に向かって祈り、賛美し、事あるごとに語りかけている。それが適切かどうかの吟味もなく。でもそれは「神ご自身」というより、「自分がイメージした神」であろう。両者の境界は曖昧かもしれないけれど。
たしかに「神様」と呼びかけているし、聖書に示される神様を意識しているのは間違いないと思う。たしかに彼らは天地万物を創造した神、イスラエルをエジプトから導き出した神、キリストを地上に遣わした神を信じていて、その方に向かって祈っている。けれど、特に「人格面」において、自分自身の「神様像」が多分に混ざっていることにあまり気づいていない。その可能性について考えていない。そして何かについて祈る時、「神様はこういう方だからきっとこんな調子で、こんなことを語られるに違いない」みたいな想像を(意識的にか無意識的にか)働かせ、それを事実としてしまっている。
それは神を崇拝しているようでいて、実は神というイメージを崇拝しているに過ぎない。
つまり、「神」に対する偶像崇拝。
■神に対する過剰な人格化
こうなってしまう原因の1つは、一部の教会群にみられる、「神に対する過剰な人格化」にあると思う。
福音派や聖霊各派は「ディボーション」を推奨する教会が多い(推奨というより強要となっているところもある)。その目的の1つは「神と個人的関係を持つこと」「聖霊と親しく交わること」「主との親密な関係に入ること」とされている。だからそこの信徒はできるだけ毎日「ディボーション」して、「神と親しく語りあう」時間を持つ。皆がそうしているから自分もそうしなきゃ、とも思うだろう。「神様と親しく交わっている」ことが、ほとんどスタンダードとなっている。
また「神様は人格のあるお方だ」とも教えられている。もちろんそれは間違っていないと思う。神には人格というか、固有のキャラクターみたいなものがあるはずだから。たとえば神が「父」と呼ばれ、キリストが「子」と呼ばれる以上、そこに人格的な繋がりがなければならない。でないと「父」とも「子」とも呼ばれない。
問題はそこではなくて、神様と個人的に親しい関係をもつことができますよ、神様と会話を交わして「満たされた」時間を過ごすことができますよ、神様は尋ねられればフレンドリーにユーモアをもって答えてくれますよ、とさも簡単なことのように、神はアメリカ人的なフランクさをもって気軽に日常会話ができる相手だみたいに言ってしまっている点にあると思う。
■神に対する過剰な人格化
こうなってしまう原因の1つは、一部の教会群にみられる、「神に対する過剰な人格化」にあると思う。
福音派や聖霊各派は「ディボーション」を推奨する教会が多い(推奨というより強要となっているところもある)。その目的の1つは「神と個人的関係を持つこと」「聖霊と親しく交わること」「主との親密な関係に入ること」とされている。だからそこの信徒はできるだけ毎日「ディボーション」して、「神と親しく語りあう」時間を持つ。皆がそうしているから自分もそうしなきゃ、とも思うだろう。「神様と親しく交わっている」ことが、ほとんどスタンダードとなっている。
また「神様は人格のあるお方だ」とも教えられている。もちろんそれは間違っていないと思う。神には人格というか、固有のキャラクターみたいなものがあるはずだから。たとえば神が「父」と呼ばれ、キリストが「子」と呼ばれる以上、そこに人格的な繋がりがなければならない。でないと「父」とも「子」とも呼ばれない。
問題はそこではなくて、神様と個人的に親しい関係をもつことができますよ、神様と会話を交わして「満たされた」時間を過ごすことができますよ、神様は尋ねられればフレンドリーにユーモアをもって答えてくれますよ、とさも簡単なことのように、神はアメリカ人的なフランクさをもって気軽に日常会話ができる相手だみたいに言ってしまっている点にあると思う。
彼らが好むコンテンポラリーな賛美の歌詞を見ても 、それがわかる。
「神様は私の友達」
「神様はお父さん、イエス様はお兄さん」
「聖書は神様からのラブレター」
1つ1つの表現は決して間違っていない。けれど、「神の人格」を意図的に、ある方向に形成する一因ともなっていると思う。あるいはそこまで明確な意図がなくても、そういう歌詞ばかり歌うことで、そういう人格化に流れていきやすいと思う。
また聖書の「アバ父よ」という箇所から、「神様をお父ちゃんと呼びましょう」とか「神様は私のダディー」とか「天パパ」とか言い出して、(繰り返すけど決して間違いという訳ではない)神との個人的な「親しさ」を強調するきらいもある。
聖書はけっこう無駄を省いた表現をしているから、たとえばキリストの言動や行動は沢山書いてあるけれど、そこから「こんな人格」「こんなキャラクター」と断定的に読み取るのはほとんど不可能ではないかと思う。キリストが泣いたことも怒ったことも笑顔を見せたことも書いてあるけれど、だからどんなキャラクターで、こういう時どういう反応をするか、何と言うか、みたいなことが目の前に浮かんでくるような、そんな書き方はされていない。想像することはできるけど、あくまで想像である。
「天の父」にしても同じことで、父であること以外、性格的なことはほとんど何もわからない。だからダディーとか天パパとか呼ぶのは自由だけど、だからって神様が「はーい何でちゅか?」とか答えるかどうかはわからない。
■神を理解する?
もっとも神を勝手に人格化するのは、決して推奨すべきでないけど、そこまで問題というわけでもない。それが「脳内神様」でないと完全に言い切ることができるなら、もう勝手にどうぞだ。
問題は、前述のように、「神様はこういう方だからきっとこんな調子で、こんなことを語られるに違いない」という自分の想像を、勝手に神の「御心」とか「導き」とか「計画」とか「啓示」とかにしてしまっている点にある。なんだか神様がとっても(自分にとって)親切で、フランクで、いつもニコニコしてて、困った時には(自分にとって)ジャストなタイミングで絶妙な配慮をしてくれて、まるで「いざって時に頼れるヤツ」みたいに考えている点だ。
神様が本来どういうお方で、何をどう考えておられるか、ということを簡単に考えすぎだと思う。だいいち「神の御思いは海の砂より多い」みたいな表現が聖書にある通り、神様の思考を全部人間が理解できるはずがない。
また私たちは生きていればイロイロな状況に遭遇する。いいことばかりではない。時には「何故だ」と思うことも起こる。残酷な出来事に直面するかもしれない(事実直面している)。なのに神様がいつも親切でフランクでニコニコしてるだけの存在だとしたら、相当矛盾している。 またタイムリーに劇的に助けてくれる方なら、なぜ残酷な事件や事故が起こって犠牲者が出るのだろうか。
そもそもの話だけれど、「神の人格」を理解して「親しく交わろう」という出発点についてまず考えなければならない。また神を理解するとは何なのかということについて。
ヨブは信仰熱心だったはずだけれど、苦しみに遭った時、「何故だ」となった。神を理解できなかったからだ。理解していたなら「何故だ」とは言わなかったはずだ。
努力して理解できることなら別だけど、「神を理解する」のはそもそも努力でどうにかなるものとは私には思えない。わからないはわからないでいいと思う。無理に「親しい交わり」をしているつもりになって、神様とイチャイチャしてると思い込むよりは、わからないなりに信仰を続ける方がいいと思う。それで罰せられるということもないだろうし。
>>「神様はこういう方だからきっとこんな調子で、こんなことを語られるに違いない」という自分の想像を、勝手に神の「御心」とか「導き」とか「計画」とか「啓示」とかにしてしまっている点
返信削除確かに新興宗教系プロテスタントにはこういった傾向が非常に強くあると思いますね。「天のダディが云々・・・」というブログを書いている、例のばあさん教祖がその典型だと思いますが(笑)。
この手の電波系の人たちのいう「天のダディ」の特徴といえばですね、とにかく自分たちにとって都合のいい性格を持っているといいましょうか、彼らの決定に対して絶対に反対しないゲロ甘パパということですか。
これで思い出すのがブッシュjr.の大統領時代ですよ。彼もボーン・アゲインという新興宗教系プロテスタントの熱心な信者でした(注 ブッシュ家の宗旨ではなく個人的に信じているもの。家の宗旨は監督派教会)。
周知のようにあちらの業界には、頭のおかしな教祖様がごまんといまして、彼はああいう連中に完全に洗脳されてしまったのでした。それで「神の声を聞く人」になってしまったみたいですね。「自分はいつも神に祈ってやっている。神が十字軍をやれとお命じになった」と本気で思っていたようですよ。
これに危機感を募らせたバチカンは、枢機卿を派遣して「神は娑婆のことには介入しないものだ」と、ヨハネ・パウロ二世からのメッセージを伝えたのですが、「ローマ教皇が何をいおうが、こっちは新興宗教系プロテスタントだから従う義務はない。そんなの関係ねえ!」状態でした。まあ創価学会の熱心な信者に東大寺の別当が忠告しても、耳を貸す義務もないし、素直に従うなどありえないわけですが・・・
結論としていえることは、どんな宗教を信じたとしても(それがたとえ新興宗教だったとしても)、「神や仏の声を聞く人」にだけはなってはいけないということですよ。
ブログがあふれかえってますからね。
返信削除「○○をして、こんなに祝福されました、神様ってほんとに素晴らしい」
ちょっと前、携挙であげられるためにすることの一つに「異言の祈りをすること」
と発信されているのを見たことがあります。
異言が口から出る人を何人か知っていますが、
「別に出ないならそれでいい」とあまり重要視していない人と、
「異言を授かってないの?#&▲$ 求めれば誰でも与えられるんだよ」という人がいます。
最近驚いたのですが、
あのミセスWは何か違うと分かったと決別した人が
天使の羽や金粉は、ミセスWと出会う前からいただいていて、今もいただいている
と話しているのです。
幼子のように信じている人には、こういうしるしが与えられる場合もあると考えるのは
女性特有の思考でしょうか。
新興宗教系プロテスタントの礼拝でのお祈りに参加した事がありますが祈りの最中に「うっ----っ」とか「シュッ!シュッ」だとか「▽■#¥%(→ブツブツ何かを言ってる)」だとか、体をゆさぶったり揺れたりする人がいます。暇な専業主婦が多いように思えるのは私の偏見でしょうか。暇すぎて宗教(異言を行う事によって自分が成長したと思えるなど)で自己満足しているだけとか。
返信削除それは聖霊派ですね。何かを言っているようにみえるのは、異言といって聖霊派やカリスマ派ではよくありますよ。
削除ただこういうものは新興宗教系のキリスト教だけにしかみられないものではありません。幸福の科学のような新興宗教系の仏教でも、大川隆法教祖が宇宙言語とやら、わけのわからない音(たとえば「うっ、うっ・・・」等)を発していて、教祖の著書の中にもその手の音ばかりを表記したものがありますよ。冗談抜きで、本を開くと、「異言」としか思えない意味不明な音が、ずーーーーっと書いてあったりしますので(苦笑)。
こんな本を百冊も買ってばらまく信者も信者なのですが、なら新興宗教系プロテスタントの教会、特に聖霊派やカリスマ派の関係者は、幸福の科学の信者をはたして笑えると思います?
異言を発して祈る人を「あの人すごい!成長しているじゃないか!」と仰ぎ見ている姿と、大川隆法のあほ本を大量に買ってばらまいている姿と、いったいどこがどう違うのでしょうね(笑)。