「原罪」で思い出すのは、アダムの罪によって全人類に罪の性質が(DNA的に?)入った故、霊的に救われても肉体は罪を持ったままで、だからクリスチャンになっても罪を犯してしまうのだ、という話。
でも「親の罪によって子が裁かれてはならない」と矛盾するんでない? と聞いたら「それは神の神秘だ」で一蹴。
神と深く繋がっていて、絶えず神に語られているんだ、と豪語する人がいたけれど、気になった点を聞くと「そこは神の神秘だ」とか「頭で理解するのでなく信仰で理解しないとダメだ」とか言われる。そんなもんかと思ったけれど、今思うと適当なことを言って煙に巻いていたのでは、という疑念が拭えない。
「信仰で理解する」って、要はガタガタ言わないで黙って信じろって話だよね。
「かたくなはいけない」「反抗的だと地獄行き」という脅しで信徒を服従させるのはキリスト教でなくキリスト教カルト。みんな気をつけよう。
聖書的な「原罪」の有無はよくわからないけれど、根本的な罪悪感? みたいなものは誰もが持っていると思う。カルトはそこを利用して「お前は悪い」「罪がある」「教祖の言うことを聞かないとますます悪くなる」などと言う。黙って言うこと聞いてると、抜け出せなくなるよ。
「原罪」と聞いて思い当たる人は、概ね自己肯定感の低い人が多く、威圧的な人物、団体に帰属した場合、妄信的に言いなりになってしまう傾向があります、自己吟味して気をつけましょう。
返信削除「原罪」はアダムのころから云々…、というのは後付けで、もともとは「私は善を思いつつ、悪を行ってしまう…」というローマ書に書かれているパウロの告白がはじめですね。
返信削除「原罪」の理解がどうであれ、身近な人間の営みを見ても、人間の歴史を見ても、悪を行うつもりで悪を行う人は稀で、たいがい成される悪は「善」、「平和」、「救済」の大義名分のもとで成される。
人は「社会ために!」、「お国のために!」、「神さまのために!」と叫びながら様々な排除、差別、略奪、虐殺を行う。ネットニュースやブログのコメント欄からカルト宗教や市民運動にいたるまで、その悪は常に美しいスローガンで装飾されている。
カトリックの思想家だったブレーズ・パスカルはこう言いました。
「人は天使でもなければ獣でもない。しかし、天使になろうとすると獣になってしまう」
天使にでもなったつもりで、人を裁いたりしていた人が、ふと鏡をみると、そこにはケタケタと笑う悪魔の姿が映っていた…というような寓話はどこにでもありますよね。
なぜ人間はこんなにも平和な世界を望んでいるのに、社会も世界も変わらないのでしょう?
19世紀のヨーロッパでは、進化論の影響もあって、いずれ人間は進化して、発達する科学技術の力を使って貧困も争いもない理想の社会を実現するだろう、と信じられておりました。そのときには、天国はこの地上に実現するのだから、神もキリスト教も必要なくなるだろう。人間が神になるだろう…と。
ところが、歴史が示すとうり、進化したはずのヨーロッパがもたらしたのは、2度の世界大戦と、何回でも人類を絶滅させるに足る核兵器の恐怖でした。
この世界大戦の過ちを反省したヨーロッパは、国家エゴイズムを脱してEU (ヨーロッパ共同体)をつくりました。しかし、今、再び移民・難民問題をきっかけに分裂の危機に直面しています。「自国ファースト」という露骨な国家エゴイズムが復活しつつあります。進化しているはずの人間の文明は、再び中世に戻りつつあるのです。
聖書におけるバベルの塔の寓話が示すように、神に近づくために互いに一致しようとすると、言葉(心や思想)が乱れてちりぢりに分裂してゆく。なぜ、人間はこうなのでしょう? 「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。だれがわたしを救ってくれるのだろう」とパウロが告白するとうりです。
再びパスカルの言葉を引用しましょう。
「2種類の人間しかいない。自分の罪や悪を直視して罪人と認める義人と、自分を義人と見なす罪人と。」
宗教改革者たちは、ローマ・カトリックの教皇庁を批判してこう言いました。
「キリストでさえ、「わたしを善き者と言うか。善き者はただ一者(神)のみ」と言ったのに、ペテロの代理だかなんだかで自分の無謬性を主張するなんて、そんな反キリスト的な振る舞いがあるかよ!」
「原罪」を利用して人の劣等感につけこむ輩がいることは、「原罪」の存在に対する反論になるどころか、むしろその証明になるでしょう。「私は人を善導できる力も能力も資格も権利もあります」と言う人を絶対に信用してはいけない、ということです。