「この世にインパクトを与える」と口で言うのは簡単だけれど

2013年12月28日土曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
「この世にインパクトを与える」と言う牧師がいる。
 何をもってインパクトを与えるかと言うと、キリスト教的な何かをもって、だと思う。人によっては「天国の文化をもって」と言う。

「天国の文化」がこの世界の文化より優れている、というのは事実だと思う。そうでなければ天国とは言えないからだ。「天国」がこの世界に劣るものだとしたら、死後、そこで永遠に過ごすというのは苦役にしかならないのではないか。
 だから「天国の文化をもってこの世にインパクトを与える」というのは、天国の先取りみたいなことで良いことだと思う。是非そうしてほしい。

 けれど実際にそう言う人たちがどれだけ「この世」にインパクトを与えているかと言うと、具体的なものは何も見えてこない。
 世間一般にそれがどれだけ認知されているかは、日本のクリスチャン人口や、教会に新しく集まる人の数を見たらわかると思う。本当に良いものがあるとわかれば、私たちは教会に大挙するだろう。新しい商業施設や新しいイベントに夥しい群衆が集まるのと同じだ。
 しかし実際にそれが起こらないということは、残念ながら、教会は何もインパクトを与えていない、ということになる。

 教会の中でどれだけ素晴らしいことが「語られ」ようが、どれだけ「勝利だ」と叫ぼうが、それを一般社会にアウトプットできなければ意味がないと思う。人によっては「霊の次元ですでに起こっている」とか「神の時がある」とか言うけれど、その彼らが実際に何をしたかは見えてこない。「大きな集会を開いた」とか言うかもしれない。けれど、クリスチャン向けにどれだけ威勢良く語っても「この世にインパクトを与える」ことにはならない。それは、「すげー勉強したよ」と言う受験生が受験に失敗してしまったのと同じで、何かの努力はしたかもしれないけれど、結局結果を残せなかった、ということだ。それが「神の御業」ということなら、ずいぶん頼りない神様だということになってしまう。あるいはそれを正しくアウトプットできない教会なりリーダーなりの責任ということになる。
 あるいは彼らは「身を粉にして働いている」とか「精一杯やっている」と言うかもしれない。けれどそれは一般に働いている人たちも同じで、結局のところ、結果を残せなければ「残念でした」で終わってしまうのだ。

 もし教会やキリスト教社会が目に見える結果にシビアになれないとしたら、それは一般社会の基準にも満たないということで、とても「この世にインパクトを与える」どころの話ではないと思う。

QooQ