クリスチャンは教会に属さなければいけませんか?

2018年5月9日水曜日

生き方について思うこと

t f B! P L
 さて、今回は教会で頑張ってらっしゃる人が見たら怒り出しそうなタイトルですが(笑)。

 怒り出す前に書いておきますが、私は教会を否定しているわけではありません。現に私自身、あちこちの礼拝にしょっちゅう出席させてもらっています。ただ、どこにも「属していない」だけです。

 つまり教会がダメだと言っているのでなく、クリスチャンはどこかの教会に属さなければ(教会員にならなければ)ダメなんですか? というお話をしたいだけですね。

 それでも中には「教会に属して、そこで成長して行かなければクリスチャンと言えない」みたいなことを断言する人たちがいます。でもちょっと極端だと思います。現に教会で酷く傷ついているクリスチャンが大勢いますから。彼らに「もう一度教会に属すべきだ」なんて、どの口が言えるのでしょう。
 教会至上主義の人たちは、そういう傷ついた人たちにこそ目を向けなければなりません。

宗教組織としての教会

 ところで「教会に属するのが当たり前」だと思っている人たちには、キリスト教の歴史を振り返ってみることをお勧めします。

 現代的な組織としての教会が誕生したのは、西暦313年のミラノ勅令以降です。そこでキリスト教が国教化されるまでの約300年間、今のような「教会」はありませんでした。むしろクリスチャンは激しく迫害されていましたから、みんな隠れて細々と信仰を守るしかありませんでした。アンダーグラウンドに活動していたわけです。

 だから「教会に属さなければならない」という主張は、きわめて現代的なものなのです。教会がなかった頃も、人々は綿々と信仰を保ってきましたから。今さら彼らに「教会に属せ」と言っても、彼らにはそれが何なのか、想像もつかないでしょう。

 あるいは長崎に潜伏していたキリシタンとか、アメリカの西部開拓時代に大平原の真ん中で家族だけで礼拝していたクリスチャンとか、今も中国で共産党に隠れて礼拝しているクリスチャンたちとかも同じです。彼らは私たちがイメージするような「教会」に属することなく、それぞれ独自の形で信仰を守ってきました。そうせざるを得なかったという事情ももちろんあったでしょう。でも彼らの守った信仰も、立派な「キリスト教」だったはずです。

 そういうことを考えると、現代的な「教会」は、キリストの教えが宗教化・組織化・制度化・保守化された結果の産物だとわかります。「教会」とは宗教組織の容れ物であって、決してキリスト教の本質ではない、ということです。

イズムとしてのキリスト教

 キリスト教は今でこそ「世界宗教」と呼ばれるまでに普及していますが(それでも日本ではイマイチですが)、本来は「宗教」と言うより「イズム」だったはずです。「制度」でなく「生き方」だったはずです。

 イズムは「主義」などと訳されますが、要は「生き方」のことだと私は考えています。そしてキリスト教の本質は、このイズムにあるはずです。つまり教会に通うことや礼拝を守ることは「枝葉」であって、その本質は「キリストの教えに従う生き方」だ、ということです。

 たとえば教会によく仕え、毎週礼拝を捧げ、毎日熱心に祈っていても、隣人愛をおざなりにしていたら、キリスト教のイズムを行なっているとは言えません。その人は「宗教的な」生活を送っているかもしれませんが、肝心のキリストの教えに従っているわけではありません。それなら隣人愛を行なっている未信者の方が、よっぽど「クリスチャン的」と言えるでしょう。

 このブログでは何度も引用していますが、『沈黙』のロドリゴ神父もまさにイズムを生きた人だと私は思っています。彼は隣人愛を行うため、神父という身分を捨て、一切の宗教行為から離れたからです。 それは側から見れば「棄教」でした。しかしその生き方は、キリストの教えを沿ったものでした。
 だから彼は教会に行かず、公的な礼拝もしなかったけれど、たしかにキリスト教信仰を保っていた、と言うことができます。

人のための教会? 教会のための人?

 ではどういう結論になるでしょうか。

 教会に属するべきでない、とは私は思いません。属したって良いのです。でも教会に属するからクリスチャンにふさわしい生き方ができる、ということでもありません。それは教会に属さなくてもできます(むしろ教会に属することで、できなくなっている面もあるかもしれません)。
大切なのは教会に属するかどうかでなく、自分がどのように生きるか(生きたいか)、のはずです。

 教会は本来、人のためにあるものです。人が教会のためにあるのではありません。
 でも昨今はよく、教会を建てたり大きくしたりするために、人々が「使われて」います。教会の権威を維持するために、人々が利用されています。
 まさに教会のために人がいる、という状況になっていないでしょうか。教会という組織や建物は、個人個人よりも大切なのでしょうか。

 さて最初の質問に戻りますが、クリスチャンはそういう教会に属さなければいけませんか?

5月6日のメルマガにて、更に詳しく書いています)。

QooQ