「祈られて倒れる」現象に潜む病理

2013年6月30日日曜日

キリスト教信仰

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 牧師に祈られて倒れる人がいると前回書いた。

 それはペンテコステ派の教会や、超教派の集会でよく見られる光景だ。海外の例だが、信徒たちが並ぶ列を牧師が足早に通り過ぎるだけで、人々がバタバタ倒れていくというのもある。
  それはそれであり得えないことではないと思う。が、それが本当に神様からのものなのかどうか、よく吟味すべきだと思う。

 少し前に、兵庫県の高校で集団パニックが起こったと報道された。女子生徒が21人、連鎖的に過呼吸などのパニック発作を起こし、救急搬送された。きっかけは1人のパニック発作だった。
 その様子を見た訳ではないけれど、泣いたり叫んだり痙攣したりしていたという話から想像するに、前述の人がバタバタ倒れるのと同種の異様さがあったのではないかと思う。その女子高生たちが「こっくりさん」をしたせいだとか、オカルト色の強い報道をする番組もあったのはそのせいだろう。

 が、この事故の背景にあるのはオカルトでなく、いわゆる「集団ヒステリー」だと思う。

 パニック発作を起こしている人を見て、自分も同じ発作を起こすというのは、一見理解し難い。が、感情や行動や症状がその集団の構成員に伝搬するという現象は、世界中で見られている。特に女性に多いという統計も出ているようだ。
 そこまで極端でなくても、流行や風評や噂に人がどれだけ影響されるかは、誰もが知っているだろう。

 祈られて倒れるという現象の背景には、この集団ヒステリーの心理が潜んでいるように私には思える。

 次々と倒れていく仲間を見て、自分にも同じことが起こるのではと考えるのは、異常なことではない。ましてそれを期待しているとしたら、自己催眠をかけるのに等しい。背後にはアッシャーがいて、自分が倒れるのを待っている。牧師も周りの全員も、倒れることを「聖霊の臨在」の証拠だと思っている。延々と続く賛美の演奏と祈りの声と熱気は、人を多少の差はあれトランス状態に導く。

 それらは、倒れなくてはいけないという強迫観念を起こすのではないか。全員でないにせよ、そうなる人はいる。少なくとも私はそうだった。

 人がバタバタ倒れた集会の後、「今日は何故か倒れなかったのよ」と残念そうに帰っていく人がいる。やはり倒れることが「聖霊に触れられた」証拠だと考えているのだ。
 が、そういう人は、「信じた人には聖霊が共にいる」と聖書が教えていることについてゆっくり考えるべきだ。牧師に手を置かれないと聖霊に触れられないとは書かれていない

 そういう集会の後に「とても恵まれました」と言う人がいて、それはそれで結構なのだが、いったい何に恵まれたのか、私にはよくわからない。
 私が不信仰なだけだろうか。

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