「按手の祈り」を受けて倒れる現象について

2013年6月29日土曜日

キリスト教信仰

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 牧師が、誰かに手を置いて祈ることがある。
「按手」と呼ばれるものだ。

 按手の扱い方は教派によって少し違うだろうが、我が「ペンテコステ派」はけっこう頻繁だと思う。ある牧師は、多い時は毎週の礼拝でしていた。メッセージの後、それに応答する信徒たちを講壇に呼び、順番に按手するのだ。

 ちなみに、それが終わるまで礼拝は終わらない。1人に対して5分から10分、あるいはそれ以上かかるから、礼拝は数時間単位で延長されることになる。
 その間、賛美の奉仕者は延々と演奏し、「とりなし手」たちはずっと祈っている。

 なんとも不思議な空間である。見たことのない人に、何と説明したらいいかわからない。ある人は「主の圧倒的臨在」とか言うかもしれない。夜のクラブで飲んだり踊ったりが好きな若者は、風変わりなクラブだと思うかもしれない。

 いずれにせよ、その「按手」の祈りによって、祈られた人が倒れるという現象が起こる。
 倒れ方はいろいろある。弾かれたように倒れたり、ヘナヘナしゃがみこんだり、ふわっと倒れたりだ。
 その理由は、牧師に言わせれば「聖霊の圧倒的臨在」ということになる。
 どうやら旧約聖書のソロモンの神殿奉献に見られる、主の栄光が強く現れて祭司たちが立っていられなかったという記述を根拠にしているようだ。
 祭司たちが倒れたのは按手を受けたからではないのだが。

 こういう風景は、私の母教会だけの話ではない。「日本ペンテコステ教役者大会」に何度か参加したことがあるが、そこでは日本中のペンテコステ系牧師たちが、同様の光景を繰り広げていた。

 按手を受けて倒れる人は、だいたい後ろ向きに倒れる。普通ならケガをするだろう。だから「アッシャー」とか呼ばれる人たちが、後ろに立つことになっている。倒れたら支えてあげて、そっと寝かしてあげるためだ。

 つまり、ペンテコステ派では「按手=倒れる」というのは文化というか習慣というか、当然のこととして認識されている
 入信したばかりの人は、周囲が自然にそうしているから、「そんなもんなのか」と深く考えないかもしれない。私はそうだった。けれど、これはよくよく考えなければならない事象だと、私は今になって思っている。

 すなわち、なぜ倒れるのか?
 神様は人を倒すことで何をしたいのか?
 倒れた結果どうなるのか?

「圧倒的臨在」とかで人が倒されること自体は、ないとは言えないと思う。
 が、それが本当に圧倒的な臨在ならば、そこにいる全員が問答無用で倒されるのではないだろうか。倒れない人がいるのはおかしいような気がする。
 私の教会では、Mに按手されていつも倒れる人もいれば、逆に決して倒れない人もいた。その違いはよくわからない。

 ちなみに私は倒れない人間だった。按手を受けている時、神様の臨在を受け取ろうと必死だったけれど、倒れるほどの何かを感じたことはなかった。

 そんな私でも、数回倒れたことがある。
 どうしてかと言うと、その牧師に倒れるまで強く押されたからだ。

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