「悪魔に騙されている」のは誰なのか

2023年3月20日月曜日

「悪霊」の問題

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 「みんな悪霊に騙されています。目を覚まして下さい!」と主張するクリスチャンが完全に見落としているのは、自分自身が騙されている可能性だと思う。何を根拠にそこまで言えるのか、立ち止まって考えることをお勧めしたい。

 キリスト教に入信して数年後(わずか数年で!)、この世の「真理」がいろいろ分かったつもりになって「○○は悪霊の策略です!」と言い出すのは、クリスチャンが陥りやすい落とし穴のひとつ。しかし「悪魔が策略」が分かったところで、あなたの街も世界も何も変わらない。ただしあなたの人生は良くない方向に変わり得る。何故ならその安易な「分かったつもり」が、キリスト者というより陰謀論者に近いからだ。


 SNSでなんとなく眺めていたクリスチャンが、初めはごく一般的な信仰生活について呟いていたのに、だんだん「悪魔」とか「霊的」とかのワードを使うようになり、気づくと「みんな、悪魔に騙されないで!」等と書くようになっているケースが時々ある。あ、またひとり向こう側に行ってしまったか……と暗澹たる気持ちになる。


 「悪魔」とか「霊的戦い」とかの超自然的なことを言い出すと、伝統宗教であるキリスト教も陰謀論と何も変わらない。


 そういうふうに先鋭化したクリスチャンと陰謀論者の共通点は、周囲がどれだけ心を尽くして語っても、論理的に話しても、時間をかけて寄り添っても、一向に聞き入れない点だ。彼らは「もしかしたら自分が間違ってるのかもしれない」など少しも思わない。自分自身もそうだった。


 約20年間、私は「悪魔の策略は~」とか「霊的戦いは~」とか信じて言っていた。しかし何にもならなかった。そんなことを主張しても何も起こらないし、何も変わらない。近所のパチンコ屋が潰れたのは「霊的戦い」の成果でなく不況の結果だし、神社仏閣は「敵」ではない。同じ宗教者だ。


 そんな「霊的戦い」に私は二十代と三十代を費やしてしまい、多くを失った。目を覚ますべきなのは私自身だった。どうか二の舞にならないでほしい。「悪魔」とか「霊的云々」とか、あなたの大切な人生を費やすのに全く値しない。


 そもそも「悪魔」など恐れる必要がない。はっきり書くけれど、「悪魔」など存在しない。「悪魔は自分が存在しないように思わせるのだ」と主張する人がいるけれど、それは「悪魔が存在することにしておきたい人たち」の使い古された言い分に過ぎない。それより本当に恐るべきは、人間という悪魔だ。悪魔がいるとしたら、それは人間に他ならないから。これは私が人生をかけて学んだことだ。

 キリスト教の一部で「○○の悪霊」というのが信じられている。例えば「肉欲の悪霊」とか「自殺の悪霊」とか「自己憐憫の悪霊」とか。しかしこれは非常に危険な考え方だ。なぜなら本当は専門的な治療や対処が必要なのに、「悪霊に惑わされているからだ」と決め付けて、ひたすら祈ったり、「悪霊追い出し」に走ったりすることになるから。それでかえってメンタルに不調をきたす人を沢山作り出している。そもそも「神の声」とか「悪魔の誘惑」とか、精神疾患と親和性が高すぎる。症状を悪化させかねないし、何が症状で何が信仰か分からなくなる。


 特に「自己憐憫の霊」とか「甘えの構造」とかは、何十年も前からその手の教会群で言われ続けている。しかし悪い結果しか見たことがない。それらは要は「あなたは自己憐憫に陥っている」とか「あなたは甘えの構造から抜け出せずにいる」とか、人にレッテルを貼ってダメ出しする機能しかないのだ。実際には誰も救わないどころか、人を苦しみと葛藤に閉じ込め続けている。


 その手のクリスチャンたちは「聖書を字義通りに読む」のにこだわるけれど、であるなら「自己憐憫の霊」など聖書のどこにも書いていない。それをほのめかすような記述もない。その矛盾をどう説明するのか? よく考えてみてほしい。


 さて、「悪魔に騙されている」のは誰なのか。



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