「クリスチャンだから嫌いな人も愛さなければならない」「許せない人も許さなければならない」「毒親でも敬わなければならない」「DV夫にも従わなければならない」
などと日々自分自身に言い聞かせたり、祈ったりするクリスチャンがいる。セルフ拷問かセルフ・コンバージョンセラピーに見えて胸が痛む。まず自分の「嫌い」「許せない」「従えない」という気持ちを大切にしてほしい。いくら否定しても消えないし、無視しても解決しないのだから。
それはキリスト教信仰というより自分をイジメる信仰だ。
他にも「悩みを神様に委ねなければならない」「少しも疑わず信頼しなければならない」「自分の力でやってはいけない」「自分の思いでなく神様の思いを行わなければならない」「肉の思いを捨てなければならない」など、実際にはよく分からない、結果的にプレッシャーにしかならない言葉が沢山ある。そういうフレーズは福音派・聖霊派系の教会で顕著だ。正直しんどいと思う(私はしんどかった)。
毎日ハードに奉仕させられていた若い信徒が体調を崩したら、牧師から「自分の力で頑張るから疲れるのだ。主に委ねきれていないのが問題だ」と言われた。とはいえ若者の目の前にはやるべき奉仕が山積みだ。なのに「自分の力でやってはいけない」と言われる。ジレンマに陥った若者は、ついにメンタルを崩した。
その若者の健康を奪った牧師は、自分の言葉が原因だったにもかかわらず何の責任も取らなかった。信仰はあくまで自己責任なのだと。であるならなぜ、牧師にそこまで信徒に強制する権限があるのか。信徒は牧師に命じられたら(その教会の状況下では)断れないのだから、自己責任も何もないではないか。
そもそも「自分の力」とか「自分の思い」とか「神様の導き」とか「委ねる」とか「聖霊の助け」とか、全く具体的でないことを具体的に実行させようとするのが間違いだ。人を「建て上げる」どころか、壊しかねない。
最初の話に戻ると、「愛さなければならない」とか「許さなければならない」とか、無理なものは無理だと認めた方が良い。「自分の力でやらない」などの空を掴むようなフレーズも、結局はよく分からないのだから、分からないと認めた方が良い。なんとなく分かったつもりになって頑張ろうとすると、自分自身をイジメることになる。
キリスト教信仰は自分をイジメるものではない。
自分の気持ちに正直になり、自分を大切にすることで、初めて聖書の言葉に向き合えるのではないだろうか。