教職者→信徒の場合
何か良くないことが起こるとすぐに「サタンの攻撃だ」とか「悪霊の策略だ」とか言うクリスチャンがいます。「サタンは巧妙な罠を仕掛けて私たちを騙そうとする。クリスチャンはそれを見破らなければならない」と。
しかしサタンが(本当に実在するとして)「巧妙な罠」を仕掛け、人類の大半を騙しているのなら、その人も騙されている可能性があるのではないでしょうか。なぜその人だけが「悪魔の策略」を見破り、真実を知っていると言えるのでしょうか。
「大半の人が気づいていない事実を、自分だけが知っている」という構図は陰謀論にのめり込む人のそれと同じです。目に見えない、存在を確認できない「サタン」の「暗躍」を煽るのも陰謀論的です。そしてそもそも「サタンの攻撃」を日常的に強調するのは、「愛とゆるし」を標榜するキリスト教信仰と整合するのでしょうか。
私もかつては「サタンの攻撃」を信じていました。「イエスの御名によってサタンよ退け」という祈り(?)を日に何度も唱えたものです。サタンが私の心に攻撃を仕掛け、誘惑し、悪い考えを植え付け、神様から離れさせようとする、と本気で考えていましたから、「そうはさせるか!」と必死でした。そして何でもかんでも「サタンの攻撃」に結び付けていました。さすがに他人には言いませんでしたけれど(言ってもどうせ信じてもらえない、でも真実なのだ、と考えていたあたりもやはり陰謀論的でした)。
しかしそうやって「サタンの攻撃を見破らなければならない」「サタンを(24時間絶えず)退けなければならない」と必死になる生活そのものが、私を縛り付けるのでした。自分では「自由」になっているつもりでしたが、完全に不自由でした。なぜなら何か考えるにしても「これはサタンが入れた思いではないのか」と恐れ、何か思い付いても「これはサタンの罠なのではないか」と不安になるからです。それが24時間365日続くのを想像してみて下さい。その状態はいくら口で「勝利」と言っても、実際は「敗北」です。当時はそうとは認めませんでしたけれど。
「サタンの攻撃」を言う時に本当に考えなければならないのは、そうやって信徒が絶えず「サタン」の脅威に恐れ、おののき、自分の信仰や霊性(?)を守るために、教職者の言う通りにしなければならなくなる不均衡な構図についてです。
サタンなどの「外部からの脅威」が想定されることで、信徒が教職者の(事実上の)言いなりになってしまうことがあります(実はそれはカルト宗教の常套手段です)。教職者に悪気がなかったとしても、その状態(誰かが誰かの思想や行動をコントロールできる状態)をそのままにするのは危険です。教職者だっていつ「誘惑」されるか分からないのですから。
私が思うに、サタンや悪魔など存在しなくても、この世界は十分「悪い」です。人を騙すのも、殺すのも人間です。悪魔などお呼びでないくらい。「悪魔は物理的に働くのではない。人の心に悪を植え付けるのだ」と知った顔で言う人もいますが、都合のいい主張です。何一つ観測も実証もできないのですから。それ自体が人を騙す言説でないと、どうやって証明するのでしょうか。
また明らかなカルトでなくても、教職者が信徒の行動をコントロールしやすくするために、サタンを利用することもあります。「信徒を攻撃するサタン」と、「サタンから信徒を守る正義の教職者」という構図です。この場合、より邪悪なのはサタンでなく教職者です。そしてそれはキリスト教信仰というより、「サタンを利用する信仰」なのです。
信徒→信徒の場合
教職者でなく、信徒の立場で、完全に悪気なく「サタンの攻撃」を主張する場合があります。これは上記の流れで言えば「教職者に騙されている」状態かもしれません。ただ教職者→信徒のような権力勾配がないことが多いので、「誰かをコントロールしたい」という動機とは違うようです。
自分にとって都合の悪いこと、困った事態にすぐサタンを介入させたがるのは、自分を「正しい」としたいからではないでしょうか。自分の中にある「悪」を含む全ての「悪」をサタンに押し付けて、そうやって善悪のバランスを保とうとするのです。その弱さが一番の問題だと思います。サタンでなくて。
自分の精神の安定や、信仰的正義感の充足のためにサタンさえ利用する人間の「悪」の方がよほどサタン的です。繰り返しますが、人間の悪魔性があれば本物の悪魔など必要ありません。悪魔が本当に存在するなら、それは人間の本性の一つであって、どこか外部にいるのではない、と私は考えます。
「サタンの攻撃」の身近な例で言えば、「聖書を読ませない力」とか「祈らせない力」とか「礼拝に行かせない力」とかがあります(随分しょぼい攻撃ですが……)。しかしそういうのはサタンのせいにする前に、単に疲れているだけかもしれませんから、とりあえずよく寝たら良いと思います。