健康な人向けのケア
キリスト教会の多くはケアに向いてない。ハームリダクション的な考え方できないからだ。「罪(教会が考える罪)」に対して「やめなければならない」の一択を突き付けるので、現実的に今すぐやめられない依存症の人などを根こそぎ排除してしまう。ケアするどころではない。
その意味で教会が言う「救い」は、実質健康な人向けだ。キリストは「病人のために来た」けれど、現在の(日本の?)教会は基本的に「元気で献金できて奉仕できる人のためにある」ように見える。
もちろん教会の現場では、ハームリダクション的なアプローチをしている(せざるを得ない)クリスチャンもいる。教会の公式な対応に反して、個人的に繋がり続けようとしていて立派だと思う。けれどケアとは本来そういうものなのだ。ルールの一律適用でなく、時間をかけて個別対応しないと「人をケアする」ことなどできない。
さて、問答無用で相手を断罪する姿勢と、あくまで個人をケアしようとする姿勢と、どちらが「キリスト者」的なのか。
もっとも私は「教会は人をケアできなければならない」とは思っていない。むしろ専門性を要するケアを安易にすべきでないと思っている。「神様の愛で愛します」とか「祈れば癒されます」とか声を掛けるのは、教会に言わせればケアなのかもしれない。けれど専門的かつ具体的なケアを必要とする人には不十分であるばかりか、変に期待させてしまう点で有害でさえある。その意味でキリスト教会の多くは、本当にケアができない。
教会とは(少なくとも現在の日本の教会の多くは)、ある程度元気な人どうしが互いに励まし合う、社交クラブみたいなものだと考えた方が分かりやすい。実態にも即している(社交クラブであることが悪いとも思っていない)。
会員限定のケア
だから論点は「教会は、誰をどこまでケアすべきなのか」になると思う。「これ以上はできない(すべきでない)」という線引きの話になるかもしれない。そしてそれは各教会単位の、個別具体的な話になるだろう。
例えば現在の福音派系教会の一部は、「牧師が信徒を24時間ケアする」体制になっている。牧師は携帯電話を枕元に置き、呼ばれればいつでも出動し、深夜の病床で祈ったり、葬儀の段取りを付けたり、辛い気持ちを聞いたりする。牧師が都合のいいケア要員になっており、故に牧師が消耗してしまう(それでも休めない)、という話はよく聞く。
その体制は牧師の健康を害するのはもちろん、信徒の依存体質を強化し、あるいは逆説的に牧師の権力を強化する。牧師の「自分はこれだけ頑張ってるんだ」自慢にもなるし、信徒のプライベートへの過剰介入にもなり得る。牧師の労働時間の問題にもなるだろう(24時間365日そんなことをしていたら、一体いつ休むのか?)。
それは要は「社交クラブの会員限定サービス」だ。ケアする対象を狭く限定し、その代わりに厚く厚くどこまでもケアする形だ。それが健全かどうかは置くとして、そこの会員になること自体のハードルも上がるだろう。献金はサービスを受けるための会費となり、多く払った者ほど多くサービスを受けられる、という構造になる。
さて、そこでは誰が「救われる」のだろうか。