家族を犠牲にして成り立つ「神の国」に価値はあるのか

2024年10月11日金曜日

教会生活あれこれ

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  教会の活動が忙しすぎて、長いあいだ家族を顧みることができず、結果家族との関係が深刻に悪くなってしまった(あるいは家族が心身を病んでしまった)、という類の話をよく聞く。不思議でならない。教会の活動は、家族をないがしろにするほど価値のあるものだろうか。あるいは家族をないがしろにして成り立つものだろうか。「人に寄り添う」「人を支える」と言いながら、家族に寄り添わず、家族を支えないのは矛盾ではないだろうか。

 平日働いている信徒が、週末を教会活動に捧げると「信仰的」とか「献身的」とか褒められるけれど、一体いつ休むのかと気になる。そしていつ家族と過ごすのか。とても不健康に思える。

 もちろん有給のフルタイムスタッフなら良い、という話ではない。フルタイムとは24時間365日働き続けるという意味ではない。当然ながら勤務時間や余暇の規定が必要だし、その規定は労働基準法等を遵守したものでなければならない。フルタイムスタッフであれ一般信徒であれ、ワーク・ライフ・バランスは適正に保ってほしい。

 こういう指摘をすると「神の国のためだから(家族が犠牲になっても)仕方がない」と反論されることがあるけれど、家族を犠牲にして立てた「神の国」とは一体何なのか。それは本当に「神の国」なのか。そこに「神様」はいるのか。甚だ疑問だ。

 家族を放置して大きくした教会が、立場の弱い人を排除する場になっているとしたら、無意味どころかもはや有害だ。「神の国のため」とか「人々の救いのため」とか言うけれど、信仰を盾にしたマスターベーションで気持ち良くなってるだけではないか。そんなものは全部やめてしまった方が、よほど「神の国」のためになると思う。

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