『証し 日本のキリスト者』で気づいた、「教会の証し集」のつまらなさ

2023年7月17日月曜日

教会生活あれこれ

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 私の教会では、礼拝の中で信徒が「証し」をすることがよくあった。原稿を事前にしっかり準備してくる場合や、マイクを持ってその場で語る場合など、形式は様々だったけれど、共通するのは「神様は素晴らしい。ハレルヤ」みたいな文言で終わる点だった。

 ちなみに「証し(あかし)」とは、「自分が体験した神様の素晴らしさを証言する」というような意味だ。だから「神様は素晴らしい。ハレルヤ」で終わるのは決して間違いではない。しかし百人が百人とも「神様は素晴らしい。ハレルヤ」で話を締めると、さすがに気味が悪い。しかしそれが教会で実際に行われている。

 色々な教会が独自の「証し集」を出している。自費出版から手作り製本まで形態は様々だけれど、その全てが「クリスチャンを励ますため」に編まれている(はずだ)。けれど「神様は素晴らしい。ハレルヤ」で終わる話が満載された「証し集」で、励まされるクリスチャンはそんなにいないのではないだろうか。むしろうんざりすると思う。またいつもの「証し」か、と。

 『証し 日本のキリスト者』(著:最相葉月)が出版されて、「教会の証し集」の気味の悪さに改めて気づいた。みんな同じような「良いこと」しか言わないから気味が悪いのだし、総じてつまらないのだ。例えるなら、営業スマイルを初めから終わりまでずっと見せられているような。どうにも嘘っぽい。

 もっとも教会では「良いこと/ポジティブなことを証しなければならない」という同調圧力が強く働いている。だからみんな口を揃えて「良いこと」しか言わない(言えない)のだ。しかし現実に生きていれば、悲しいことや苦しいこと、理不尽なことや答えのないことは沢山ある。いつもハッピーエンドとは行かない(むしろハッピーエンドの方が少ないのではないだろうか)。その現実を無視して無理くりハッピーエンドにしなければならないのは、正直辛い。


 お互いに「何も問題なくてハッピーです。問題があっても神様がいれば大丈夫です。ハレルヤ」みたいな顔をして、しかしお互いにそれがなんとなく嘘だと気づいている、みたいな空気感は、「神様の光」というより「教会の闇」だと思う。『証し 日本のキリスト者』は図らずも、そういったキリスト教会の偽善性を炙り出していると思う。

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