「ありのまま」ゲーム

2023年7月24日月曜日

教会生活あれこれ

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 ディズニー映画『アナと雪の女王』で広まったフレーズ「ありのままの自分」は、以前からキリスト教福音派が好むフレーズでもあった。「神様の前に、ありのままの自分で出よう」というような使い方だ。しかし教会が言う「ありのまま」は、禁酒禁煙できない自分ではないし、日曜に早起きできない自分でもないし、教会に行きたいくない時がある自分でもない。教会が指定する「ありのまま」でなければ、認めてもらえない。

 つまり何が「ありのまま」で何が「変えられなければいけない」かは、教会や指導者が決める。文字通りの「ありのまま」はまず受け入れられない。礼拝に集中できなかったり、牧師の説教に疑問を抱いたり、教会以外にも大切にしたいものがあったりするのは「(神の)御心でない」とされる。信徒側もそれが分かっているから、無難な線の「ありのまま」しか出さない。結果、互いに相手の出方をうかがう「ありのまま」ゲームになって、安い御涙頂戴劇場が教会で繰り広げられる。


 マックス・ルケードの児童絵本『たいせつなきみ』や、韓国発の賛美曲『君は愛されるため生まれた』などが、そんな空気感の中でヒットした。90年代後半から2000年代前半のことだ。「ありのままのあなたが大切で、そのままで愛されている」という感動メッセージが、そんな「ありのまま」ゲームを背後で盛り上げた。その点、教会で流行るものはとても政治的だ。信仰的なムーブメントではない。

 「ありのまま」ゲームにおいては、信徒たちは「本当にありのままの自分」など出せない。深刻なものであればあるほど、どうしても信仰の文脈で判断されるからだ。「ありのまま」なのに放っておいてもらえないのだ。なのでさほど問題にならない部分だけ開示して、「教会向けのありのままの自分」を作ることになる。そういうのを見せ合って喜び合い、泣き合う。その歪さに薄々気付きながらも、その手の教会で生きるには、そうする他ない。


 あるいは真面目なクリスチャンは「ありのままの自分」を「自然なままの自分」と錯覚して、例えば「ノーメイクで髪を染めない自然な自分こそありのままだ」と考えたりする。その意味で「ありのまま」は人を自由にするのでなく、縛り付ける。「ありのままでいなければならない」というプレッシャーとなる時、もはやそれは「ありのまま」ではない。

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