「対話」は重要だけれど、「公正な対話」はよほど注意して互いの立場や姿勢を確認しないとできない。例えば初めから攻撃姿勢の相手では「対話」は成り立たない。両者のパワーバランスが違い過ぎる場合も難しい。だから極力「対話する」可能性を模索しつつも、同時に「(この場合は)対話しない」という選択肢も必要になる。それで相手が「逃げた」と言って追い討ちを掛けてくるなら、それ自体が「対話できない」相手であることの証左だ。真摯に「対話」を望むなら、相手が(その時点で)「対話」を望まないことも尊重できるはずだから。
最近のキリスト教界隈の動きを見て、改めてそう思う。「キリスト者なんだから話し合えば分かり合える」は幻想でしかない。むしろ同じキリスト者であっても、信仰や立場の違いは時に大きな溝を生む。その溝の一方の淵から発せられる「対話しよう」という言葉には、「相手を論破して服従させてやろう」という暴力的発想が潜んでいることがある。それは初めから「対話」の姿勢ではない。
「対話しよう」と言う人が、必ずしも適切な「対話」方法を知っているわけではない。
私の牧師は「腹を割って話そう」と口癖のように言ったが、それは「互いに胸の内を明かし合い、祈り合い、神の愛によって再び結び合わされる」というシナリオありきの茶番だった。あらかじめゴールが決められていたら「対話」も何もない。
差別的な言説を垂れ流している人物が、反差別を標榜する団体に「対話」を申し込む。それは「対話」によって理解を深めよう、議論を深めよう、という動機ではほとんどない。むしろ自分の差別言説を広めよう、注目させようという邪悪な狙いを隠していることが多い。その場合は「対話しない(相手にしない)」ことで、それ以上相手の差別言説を「広めない」ことも大切になる。「対話」に応じること自体が、相手の言説をある程度「認めた」ことになってしまうから。図らずも差別に加担することになってしまう。
「対話」をするには、まず双方の物理的・心理的安全が保障されなければならない。どんな形であっても暴力や脅迫は許されない。権力勾配はもちろん、巧妙な心理操作を行うマニピュレーターにも注意が必要だ(第三者の介入が必要になるかもしれない)。その上でルールや時間設定、禁止事項等を個々の「対話」ごとに、双方の合意によって決めていく必要がある。そういった下準備を経て、ようやく「対話」のプロセスに進める。