ゲイバーやSMバー(あるいは夜職全般)で働く人を露骨に蔑視して、「地獄へ堕ちる残念な人」などと言ってしまうクリスチャンがいますが、残念なのは彼らの方だと思います。ある属性を一つに括って「地獄行き」「残念」などと決めつけるのは、偏狭と言うほかありません。
ゲイバーやSMバーで働く人たちと、実際に接したことがあるでしょうか。彼らは教会が絶対にリーチしようとしない人たちに居場所を提供し、色々な意味で「救い」をもたらしてくれています。リスペクトして然るべきです。
もちろん金銭が発生する仕事だからですが、彼らは高いプロ意識を持って日々自分を磨き、分け隔てなく接客しています。特に自分を見せる種類のバーでは、体型の維持やスキンケアなどに大変な時間と労力をかけています(外見を取り繕っているだけだ、と言われるかもしれませんが、外見は内面に支えられているのです)。その姿勢はクリスチャンも見習うべきだと思います。
それにキリストが今の東京にいたら、歌舞伎町あたりに足繁く通っているのではないでしょうか。大きな教会の中で、ふんぞり返っているのではなくて。
教会は「どなたでもお越し下さい」と言うことが多いですが、実際には歓迎する人を限定していることが多いです。「まっとうな」仕事をしている人や、社会に適応して生活している人、教会の品位を損なわない身なりの人、礼拝中静かにしていられる人など。ゲイバーやSMバーを好む人たちはそのリストには入っていません。あるいはリストに入れて「あげる」にしても、その好みを悪いもの(罪)として、変えさせようとするでしょう。
教会が言う「ありのままでいい」とは、「教会が認める範囲のありのままならいい」という意味です。
一度SMバーに行ったことがありますが、まるで教会のようだと私は思いました。店員さんたちは満遍なくお客さんに目を配り、声をかけ、サーブします。お客さんは自分の好みや指向を安心して開示します。緊縛は相互の同意とルールに則って行われます。決して何でもありではありません。むしろ礼拝のような形式美さえありました。そしてそこで救われる人がいました(そこでないと救われない、と言っても過言ではありません)。
キリストは、当時のユダヤ教徒が(特にその指導者層が)決して手を差し伸べなかった人々のところに出向きました。彼らと食事をし、時間を過ごしました。そしてそれは「上」から「下」への「施し」ではありませんでした。「友」にならせてもらったのです(クリスチャンは決して「上」ではありません)。
私はその夜、歌舞伎町のSMバーで、他のお客さんたちの緊縛風景を見ながら、不思議と心和むものを感じました。そこにいるのは何かを必要とする人々で、その必要がそれぞれ満たされているのでした。あそこにも、キリストはいた(いる)のです。