ウクライナ情勢にクリスチャンとしてどうかかわるべきか

2022年3月1日火曜日

「終末」に関する問題

t f B! P L

・「預言」や「終末」や「神の計画」より大切なもの


 キリスト教の終末論解釈の一つに「ロシアがイスラエルを奇襲するのが終末の始まり」という説があり、今回のウクライナ情勢(2022224日にロシア軍がウクライナに侵攻を開始した)をその「始まりの始まり」と(根拠なく)解釈するクリスチャンがいるので、注意喚起しておきたい。そうやって人の恐怖を煽るのは、キリスト教信仰を騙ったカルトの手法だ。


 「世界情勢を安易に終末と結び付けてはいけない」というのは福音派系の教会でも教えられるはずだけれど、安易に結び付けたがるクリスチャンが後を絶たない。そして残念ながらこれは今に始まったことではない。例えばガザ地区で紛争が起こるたびに、イスラエルが絡んでいるというだけの理由で、「終末の始まり」を言い出す人がいる。そして毎回「ハズレ」るのだけれど、毎回何の反省もなく、同じことを何年も繰り返している。終末の恐怖感で人を煽って注目を集めたいのかもしれない。信仰を悪用していてとても悪質だ。


 同じ文脈で、何年か前に「マイクロチップは獣の刻印だ」説がツイッターに現れて同調する人がいたけれど、その後5Gに取って代わられ、やはり誰も何も反省していない(少なくとも自分は見ていない)。信仰と言うより、陰謀論に振り回されているだけではないだろうか。信仰と陰謀論の境界が曖昧になっていると思う。


 ウクライナでは既に多数の死傷者が出ており、事態は悪化の一途を辿っている(同年31日現在)。陰謀論じみた信仰談義で盛り上がっている場合ではないと思う。戦争に巻き込まれない安全地帯にいるからこその、お気楽さではないだろうか。


 クリスチャンとして、聖書の「預言」や「終末」や「神の計画」は大切なのかもしれない(私自身はさほど大切だとは思っていない)。けれどそれより遥かに大切なものがある。人の命や安全や生活だ。それらに比べれば「預言」や「終末」など、どうでもいいと私は思ってしまう。


・苦しみの意味とは


 苦しみを「神からのもの」「何か意味があるもの」「自分が通るべきもの」と考えることで、それに耐える力が湧いてくるかもしれない。けれどその前に考えるべきなのは、それは本当にただ黙って耐えるべきものなのか、不当な扱いではないのか、本来拒否すべきものではないのか、といった点だ。


 人生の中で起こることは全て「神の導き」であり「試練」である、という考え方が成立するなら、戦争が起こることもそこで人々が苦しみ殺されることも「神の采配」になり、ただ黙って引き受けなければならなくなってしまう。しかし実際には、生きていれば不当な目に遭うことは山ほどある。「神の導き」で片付けるわけにはいかない。抗わなければならない。その点で宗教は「惑わし」になり得る。


 身近なところでよくあるのが、配偶者から暴力を振るわれているけれど、相手は「神様が与えてくれた配偶者」であり、「神様が導いてくれた結婚」であり、「離婚は罪(と教会で言われる)」から、ただひたすら暴力に耐え、教会では円満で幸せな振りをしなければならない、という悲惨なケースだ。そのように何の救いもないことが、教会の中で実際に起こっている。


 「神からの試練」と考える(しかない)ものと、はっきりNOと言って拒否しなければならないものとは区別すべきだ。でないと不幸な(でも表向きは問題なく見せる)信仰者をたくさん作ってしまう。信仰は人を不幸にするものではない。



・ウクライナ情勢にクリスチャンとしてどうかかわるべきか


「戦争反対をネットで叫んでもクソの役にも立たない。だったら直接戦いに行け」という冷笑系のツイートを複数見かけた。「教会の問題をネットで指摘しても何の役にも立たない。だったら直接文句を言いに行け」ととても似ている。どちらも、声を上げることの力を見くびっている。


 戦争という大きな事態を前にすると、「自分一人が頑張ってもどうにもならない」と思ってしまうかもしれない。しかし戦争反対を言い続けるのは無意味なことではない。その声が集まると大きな力になる。実際、民衆のデモは世界を幾度も動かしてきた。


 クリスチャンとしては「祈る」という選択肢がある。けれど私はもっと実際的な、具体的な行動の方が今は大切だし、求められていると思う。戦争反対をツイートすることもできるし、デモに参加することもできる。ウクライナ大使館にお金を寄付することもできる。何もできない、なんてことはない。もちろん「クリスチャンは全員何かしろ」という話ではない。できる時に、できる範囲ですればいい。ただキリスト教の「隣人愛」とは、ただ「祈る」だけでなく、そういう具体的な行動を伴うことだと私は考える。

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