「神の側」なる「中立」問題

2022年2月15日火曜日

キリスト教信仰

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 ツイッターのクリスチャン界隈ではほとんど絶えず、どこかで神学的な、あるいは信仰生活全般にかかわる論争が起きている(一見すると保守vsリベラルの論争に見えるが、保守もリベラルも一枚岩でなく、そんなに単純な対立でないことが見ていると分かってくる。フェイスブックでも状況は同じようだ)。その絶え間ない論争に呆れて、「自分は右でも左でもなく、イエス様に従うだけだ」と中立(神立?)を主張をする敬虔そうなクリスチャンがいる。気持ちは分からなくはない。けれど人間はどう転んでも政治的な生き物で、個人が持つ神観や信仰観は程度の差はあれ右か左に傾いている。自分だけそこから切り離して、「中立だ(神の側だ)」と言うのは無理がある。

 右でも左でもない「神の側」という第三の立場があるのではない。「神の側」だとあなたが思っているそれは、あなたの神観や信仰観、価値観に照らして神を右か左に引っ張った結果だ。右と左のどちらが「正しい」かでなく、完全な「中立」という立場はあり得ない、という話。


 あるいはその「中立」は、左右の論争を忌避した結果かもしれない。争いは嫌いだから見たくない、やめてほしい、平和にいさせてくれ、という気持ちだ。その心情は尊重されるべきだと思う。けれどだからといって、その人自身が右でも左でもない、ということにはならない。右からも左からも離れた「中立」という立場や、まして「神のきよく正しい側」に自分がいる、と思うのは都合が良すぎるし、(厳しい言い方だけど)傲慢だと思う。


自分だけは「神の側」にいる?


 もちろん無益な論争や口汚い言い争いがあるのも事実だ。私もそういうのは見たくないし、意味がないとさえ思っている。けれど例えば、差別に反して戦わなければならない場面もある。誰かが戦わなければその差別が放置されたままになってしまう。それに対して「論争などクリスチャンのすることではない」と言うのは、差別を助長することで、それこそクリスチャンのすることではないと思う。もちろん誰にだって弱っている時や、戦えない時はある(私もある)けれど、「中立」の幻想に浸って、戦っている人を蔑んではいけない。


 「『イジメを止めないのはイジメているのと同じ』という言葉は『怖くて声を上げられない人』を追い詰めてしまう」というツイートを最近見た。戦えない人に戦いを強要するべきでない、という意味だろう。私は基本的にそれに賛同する。けれどそれは「怖くて声を上げられない人(「中立」でいたい人)」を守るために、イジメられている人をイジメられたままにすることでもある。「中立」を主張して、争いを忌避したり嫌悪したり馬鹿にしたりするのは、そうやって虐げられている誰かを見捨てることでもある。それは覚えておかなければならない。

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