「神様、どうぞ道を示して下さい」と祈りたい切実な心情は理解できる。神様に導かれれば間違いないはずだからだ(教会でもそう教えられる)。私も教会に在籍していた頃はその手の祈りを散々捧げた。
しかし神様が目の前にはっきり分かる形で現れて、間違えようのない明確な言葉で、「○○しなさい」みたいに「導き」を与えてくれるわけではない。そういう風に語られれば誰も悩まないだろう。けれど実際はそうは行かない。
私が教会で教えられた「神様の導きを知る方法」は、次のようなものだった。
・心に浮かぶ「淡いセンセーション」を「導き」だと信じる
・聖書のある言葉が思い浮かんで離れなくなる→神の導きを示している
・様々な状況が一つの方向を示している→神が状況をコントロールして導いている
・厳しい選択をすべき状況だが、なぜか心に「平安」がある→神の導きを示している
・聖書のたまたま開いたページが、タイムリーに必要な箇所だった→神の導きを示している
・(稀なケース)肉声が突然どこかから聞こえてくる
これらはどれも主観でしかなくて、結局「自分で選ぶ」しかない。と今は思うのだが、ペンテコステ系や福音派系の教会では、今もこういうふうに教えられることが多いようだ。だからSNSではその手の教会の人たちが、異口同音に「神様どうぞ導いて下さい」と呟いている。かつての自分を見ているようで、他人事に思えない(だから私はこのテーマを繰り返し書いている)。
この祈り(「神様どうぞ導いて下さい」)は当然ながら、「神様はクリスチャンを正しく導いて下さる」という前提に立っている。その導きに従えば間違いない、あるいはその導きに従わなければならない、という前提だ。しかしここには、あまり注目されない、もう一つの前提がある。「神様は導きを明確には教えてくれない。だからクリスチャンは心を尽くして祈ったり、上記の方法を駆使したりして、正解の『導き』を(テストか何かのように)見つけなければならない」という「試験」的な前提だ。
宿題の算数ドリルに取り組む子どもがいる。その隣に、答えのページを持つ親がいる。子どもは自分なりに計算して答えを出す。これで正解だろうか? と親を見る。しかし親は答えのページをはっきり見せるでもなく、口頭で教えるでもなく、ただ黙っている。結局、子どもは自分の答えが正解なのか不正解なのか、はっきり分からない。「神の導き」を求める祈りは、たとえればこのような状況に似ている。
そしてここで扱っているのは算数の計算問題でなく、一人一人の人生の選択だ。その答えをはっきり開示しない親(神)に、本当に「導かれる」ことはできるのだろうか。
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祈れば明確に導かれる? |
この祈りのもう一つの問題は、「正解を選ばなければならない(間違えられない)」という強迫観念に囚われてしまうことだ。あるいはそこには「自分で決められない」という他者依存が隠れているかもしれない。または悪い結果になった時に、「神様がこれを導いたはずなのに」と責任転嫁する都合の良さが隠れているかもしれない。
上記に挙げた「神様の導きを知る方法」は、繰り返すがどれも(最終的に)主観で判断するしかないものだ。つまり「神様が私を○○へ導いている」のでなく、「神様が私を○○へ導いている、と私は信じる」という自分の判断/選択でしかないのだ。それを「神の導き」だと信じるのは自由だが、一般化して言うことはできない。そう信じない人もいる(私は信じない)。そして「最終的に自分で判断する」点において、神様に切実に尋ね求めているように見えて、実は神様を無視した祈りでさえあると思う。
私はもうそういう祈り方はしない。そういう祈りはもう卒業した。今は(あえて祈るなら)「神様、自分はこれこれをします」と自分の選択を告げるだけだ。それが自分の選択であることを放棄しないし、どういう結果になろうとも神様のせいにしたり、周りの誰かのせいにしたりしない。それが信仰における「大人」ではないだろうか。
神様とあなたの関係を、一般的な親と子の関係に置き換えて考えてみてほしい。親が子に「この高校に進学しなさい」「この大学に進学しなさい」「この会社に就職しなさい」「この人と結婚しなさい(or独身でいなさい)」「あの地域に引っ越しなさい」「あの教会で○○の奉仕をしなさい」「この歳になったら△△をしなさい」などと、いちいち「導く」のは健全な親子関係だろうか。それが健全な成長だろうか。何一つ自分で決めない(決められない)子は、一体いつ「大人」になるのだろうか。
信じて何十年経っても「どうぞ道を示して下さい」とか「自分はどうしようもない罪人で~」とか言い続けるクリスチャンは(自分も同じような状態だったけれど)、どうにも頼りないと思う。それは謙遜とか謙りとかではない。いつまで経っても自立できていないのだ。それこそカルトに付け込まれる「信仰における乳飲み子」で、危険でさえある。どうか早く自立してほしい。
最後まで読んで下さった(今もそういう祈り方をしている)あなたには、そもそも神様に事細かに導きを求めなければならないのだろうか? と前提部分を疑ってほしいと思う。