女性の牧師を否定するあなたに言いたいこと

2021年12月14日火曜日

差別問題

t f B! P L

  「女性が牧師になったら独身の男性信徒にとって誘惑になるのでは?」と危惧する言説をSNSで見たけれど、まったく同じことが男性牧師と独身の女性信徒にも言えるので、女性牧師だけ問題視するのは性差別と言う他ない。内在するミソジニーを自覚してほしい。

 女性の牧師に(牧会的に)お世話されたことで、男性信徒が恋愛感情を抱くなどの勘違いをするとしたら、それは女性牧師の問題ではなく、男性信徒の問題だ。何を甘えているのだろうか。女性牧師はあなたのお母さんではないし、お姉さんでもないし、恋人でもない。境界線を踏み越えてはいけない(男性牧師に対しても同じことが言えるが)。


 これは「女性が露出の多い服装をすると男性の誘惑になるから駄目」と言って女性の服装を制限させるのと根っこは同じだ。女性の露出が気になるなら男の方の目を潰せ、と聖書は言っている。男性が誘惑されるのは女性の責任ではない。


 これは何度も書いていることだが、露出の多い服装の女性に向かって「露出を控えた服装をしてくれ」と頼む男性は、誘惑を退けようと立派に行動しているのではない。自分の問題の責任を女性に押し付けて、女性の権利(好きなものを着る権利)を不当に奪おうとしているだけだ。他人の自由を奪う権利はないし、ましてそんな行為は信仰ではない。


 「女性は体力的に牧師職が務まらないのでは?」という言説も見たが、「男は体力がある」「女は体力がない」という偏見から抜け出せていない。それにそもそも牧師の業務を遂行する上で大切なのは、体力よりメンタルの安定だと思う。そしてメンタルの安定に有意な男女差はない。


 聖書を利用した性差別も相変わらず行われている。例えば、エデンの園で先に誘惑されたのがエバだから「女性は愚かだ」などと決めつける。乱暴な話だ。それが成り立つなら、イエスを十字架につけたのもステパノを処刑したのもパウロを捕らえたのも男どもなのだから、「男性はクズでバカだ」と決めつけられても文句は言えない。


 「聖書は誤りなき神の言葉だ」と主張して、聖書に出てくる数人の男女をつかまえて「ほら、だから女は○○なんだ!」とか「男は××であらねばならぬ!」とか大きく括って決めつけるのは、自身の性差別や偏見や先入観を聖書に投影しているだけだ。仮に聖書が「誤りなき神の言葉」だとしても、その読み方は誤っている。


 これらはいずれせによ、信仰や聖書でカモフラージュした性差別だ。そして人類が歴史的に繰り広げてきた女性差別・女性蔑視のキリスト教版だ。隣人愛を謳うクリスチャンであるならば、自身の差別感情を自覚して、まずそれに向き合わなければならない。

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