同性愛に関する差別的な投稿を指摘されたクリスチャンが、「自分はよく分かっていないから勉強したい」という旨を答え、しばらく静かになった(結局謝罪はなかった)。
それからおよそ1年後、同じ人がまた同じような差別投稿をした。1年前と何も変わっていないように見えた。なので私は直接指摘した。「あなたは去年『勉強します」と言いましたよね。何をどう勉強したのでしょうか?」
それに対する返答はなかった。
また別のところでも、同性愛に関する差別発言を黙認した牧師が、あちこちから指摘を受けて「皆で勉強していきましょう」とコメントした。私は思った。その「皆」とは誰なのか? その牧師自身はどこに立っているのか? 何をどう勉強していくのか? しかし何一つ明らかにならないまま、その牧師はツイッター(現エックス)アカウントを消した。
似たようなケースを他にも幾つか見てきた。クリスチャンのモラルを疑っている私は少しも驚かない。普段は「神のしもべ」とか「聖霊の宮」とか敬虔なことを言っておきながら、誠実さが試される場面になると都合よくフェードアウトする。差別問題においてでさえ自分の保身を優先する。それでいて「クリスチャンだって人間だ」みたいな反論をする。間違いを間違いだと認めることができない人間に、「霊とまことをもって神を礼拝する」などできるのか。だからクリスチャンのモラルなんてそんなもんだと、私は日頃から書いているのだ。
キリスト教界における同性愛差別はまだまだ根強い。昨今は福音派系の牧師が同性愛差別に異議を唱えるケースも徐々に増えている。けれどバックラッシュも激しい。
もちろん露骨に差別発言をして「信仰者として当然のことを言ったまでだ」などと開き直るケースも厄介だが、同じくらい厄介なのが、上記のように「勉強したいです」と言いつつ何一つ態度を変えないケースだ。あくまでジェントルな態度で、話が分かるように見えるけれど、実のところ何も分かろうとしない。それでいて自分は理知的だとか、客観視できているとか思い込んでいる。
私はそういう人間を見るたびに、だから「神の裁き」が必要なんだなと思ってしまう。