オンライン礼拝で実力主義に晒される教会

2021年12月8日水曜日

オンライン礼拝

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 今年はYouTube等でいろいろな教会のオンライン礼拝を視聴した。リアルでは遠くて到底参加できない教会の様子も、自宅にいながら見ることができた。今(20202021年)ならではの恩恵かもしれない(今後も続けてほしいけれど)。

 礼拝を一般公開している教会情報は私は主にTwitterで集めたが、YouTubeFacebook、その他の媒体で探してもいいだろう。その意味でネットやSNSは、教会活動や信仰生活を一変させたと言える(そういった変化を受け入れない教会もあると思う)。


 オンライン礼拝はどこも似たようなものかと思いきや、これが全然違っていた。違いを大別すると、技術面と内容面だ。


技術面


 機材の影響だろうか、ノイズが大きくて聞くに耐えない音質のところが幾つかあった。何を言っているのか聞き取れないレベルのところは、もったいないと言う他ない。自分たちの配信を視聴し直して、フィードバックした方が良いのではないだろうか。


 あとプライバシーの都合だと思うけれど、ほとんど壁しか映していないところがあった。壁だけ映すなら、そもそも映像でなく、文字情報(賛美の歌詞や聖書箇所、説教のポイントなど)を表示した方が有効ではないかと思った。


 またZoom等の会議型で散見されたのが、参加者の生活音や私語が漏れ聞こえてくるケース。参加者がミュートし忘れたのだろうけれど、管理者は気にならないのだろうか(配信の方はリアルタイムで視聴していないのかもしれない?)。


 一方で、映像も音質も非常にクリアで、マイクと各楽器のバランスも良く調整されている、非常に快適な視聴環境の教会もあった。講壇は綺麗に飾られ、清潔な身なりの奉仕者たちが等間隔に整然と並び、礼拝自体もスムースに進む。明らかにカメラを(見られていることを)意識している。


 礼拝で何を一番大切にするか、優先するかはそれぞれの教会で異なるだろう。オンラインはあくまで「ついで」であり、とにかく映しておけばいい、流しておけばいい、という考え方のところもあるかもしれない(それで精一杯、という事情もあるかもしれない)。逆にリアルにかけるのと同じ熱量をオンラインに注ぐ教会もある。どちらが「礼拝として良いか」は一概に言えないが、視聴する側の快適さとして後者が望ましいのは言うまでもない。


内容面


 内容と言っても、礼拝の中身に文句を言いたいわけではない。牧師の言葉遣いが荒っぽいところが、幾つかあったのだ。


「皆さん、分かってますかー!? 永遠の命がなかったらぁ、何にも意味ないんだって! そんな人は死んだも同然なんですよぉ!」


 一字一句正確ではないが(ショックで覚えきれなかった)、概ねこういう言葉遣いの牧師がいた。自身の説教がYouTubeで全世界に公開されていることが分かっているのだろうか。初対面の人間にこういう物言いをするとしたら(現にしていたのだが)、牧師としての資質に問題があると言わざるを得ない。


 あと一般公開なのに、(主に説教後に)教会員のプライバシーに踏み込んだ発言を堂々としている教会もあった。やはり「誰に聞かれているか分からない」意識が薄いと思う。リアルの教会でも、週報の「今月の誕生者」の欄に教会員の氏名と生年月日を記載しているところが未だにあるが、信徒の皆さんはそれで良いのだろうか。


一般公開と実力主義


 オンライン礼拝をオープンにして不特定多数に見てもらうことは、良い部分を評価してもらえるのと同時に、ダメな部分が容赦なく晒されて、低評価を下されることだ。そしてある程度ダメだとジャッジされたところは、もはやそれ以上見てもらえない。その意味で、オンライン礼拝の一般公開は、冷徹な実力主義の世界に飛び込むことだ。


 もちろん前述の通り、オンライン礼拝が「ついで」でしかなく、どう評価されたって一向に構わない、という向きもあるだろう。むしろ部外者に見てもらわなくて結構、と割り切っている教会さえあるかもしれない。


 その点は、その教会が開拓伝道を旨とするか否かが関係していると思う。


 何もない(誰もいない)ところからイチから建て上げる単立開拓教会は、極めて実力主義だ。色々な意味で人を惹きつけるものを牧師が備えていないと、成立しないから。数年で見る見るうちに教会を拡大発展させる開拓牧師がいる一方で、希望を胸に開拓を始めたものの、数年経っても結果が出せず、諦めて去って行く開拓牧師も少なくない。


 そういえばオンライン礼拝の視聴クオリティが高いのは、開拓伝道で大きくした単立教会に多いように思う。開拓伝道をほとんど意識しない、既存の教会員へのサービスを優先する教会群には見られない情熱がある。それも実力主義がなせる業だろうか(繰り返すが、どちらが良いという話ではない)。


 ただ、今年視聴させてもらったオンライン礼拝を司式した牧師の何人かは、初対面の人を怒らせてしまったり、不快にさせてしまったりで、開拓に(実力主義に)耐え得るレベルではないと正直思う。既存の信徒にしか通用しない、内輪感覚が抜けないやり方でも構わないけれど(私個人はそういう教会にはオンラインでも行こうと思わないけれど)、果たして未来があるだろうか? と疑問に思わずにいられない。

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