聖書を利用した性差別、あるいは聖書に投影した性差別
エデンの園で先に誘惑されたのがエバだから「女性は愚かだ」と決めつける人(主に男性)がいるけれど、キリストを十字架につけたのもステパノを処刑したのもパウロを捕らえたのもみんな男たちなのだから、その理屈で言えば「男性の方が数倍愚か」なのではないだろうか。結局のところ、聖書のわずかな記述を利用した性差別(女性差別)だと思う。
「男性信徒にとって誘惑になるから女性は牧師になるべきでない」という酷い言説もあった。それを言うなら逆のパターンもあり得るし、近年次々と明るみになっている男性司牧による信徒(主に女性や子ども)への性暴力の多さを考えるなら、「男性は司牧になるべきでない」の方が現実味がある。それに仮に女性牧師が男性信徒にとって「誘惑」になるのだとしたら、それは女性牧師の問題でなく、男性信徒の問題だ。責任転嫁も甚だしい。
「聖書は誤りなき神の言葉だ」と主張して、聖書に出てくる数人の男女をつかまえて「ほら、だから女は○○なんだ!」とか「男は××であらねばならぬ!」とか大きく括って決めつけるのは、単に自身の性差別や偏見や先入観を聖書に投影しているだけだ。聖書の内容が誤っていないとしても、その読み方は誤っている。
現実世界には女性差別や様々な差別が蔓延している。賃金や雇用の男女格差を見れば、2021年の日本のジェンダーギャップ指数が120位だったのは何ら不思議ではない。私たちはそういう社会に生きていて、多分どこかで「そういうものだ」と思ってしまっている。そしてそういう私たちが「ニュートラルな視点で聖書を読む」のは、ほとんど不可能ではないかと思う。現に聖書の世界の(あるいはユダヤ社会の)、例えば「女性と子どもを数に入れない」習慣を、私たち(主に男性)はほとんど違和感なく読み流してきたのではないだろうか。そこには「そういうものだ」という、現実世界から持ってきたジェンダー観の影響があるはずだ。
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文脈を無視した解釈が聖書を捻じ曲げる |
「聖書を読んで正しく理解したい」と願うのは良いことだけれど、自分が無意識的に持っている差別意識や偏見、先入観、刷り込みといったフィルターを通して読む限り、聖書のメッセージを「正しく」理解することはできないと思う。そればかりか「聖書は差別を肯定している」「聖書は男尊女卑を自然の秩序としている」などと、聖書を差別の道具にさえしてしまうかもしれない。それはもはや聖書に対する(あるいは神に対する)冒涜ではないだろうか。
聖書に限らず何かを読む時、見る時、考える時、そこにはあなたが人生の中で身に付けてきたフィルターが介在している。そのフィルターは外せないかもしれない。けれど少なくともその介在を自覚しなければ、聖書の記述はまっすぐ入ってこない。ヘブル語やギリシャ語を学んで聖書を読む人も(その志は立派だし尊敬するけれど)、そのフィルターからは逃れられない。