偶像崇拝って何?

2021年7月26日月曜日

「偶像崇拝」問題

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 カメラで有名なCannonは「観音」が由来だから使ってはいけない、と教会で言われたことがある。使ったら偶像崇拝になるし、偶像崇拝をする会社を応援することになるから、と。同じような文脈で、100円ショップのダイソーは創価学会が経営している(学会員が経営に携わっている?)から利用してはいけない、とも言われたこともある。やはり偶像崇拝に加担するからだ、とか。それらの情報の真偽は分からないけれど。

 仮にそれらが事実だとしても、表面的すぎるのでは。カメラはただのカメラでは。誰がどういう意図で製造したにせよ、しなかったにせよ、それを使っただけで自動的に偶像崇拝したことになんてならない(偶像崇拝とは何か、という具体的な定義も必要だろう)。寺社の境内に入っただけで偶像崇拝になるとか、ハロウィンに仮装しただけで悪魔崇拝したことになるとか、そんなのと同じくらい馬鹿げている。


 それに他の宗教団体が運営する企業を応援しても、何の損にもならない。むしろ宗教団体が社会的に(健全な形で)成功するのは、宗教界全体にとって良いことのはず。それだけ宗教の印象が良くなり、敷居が下がるはずだから。


 「クリスチャンは仏葬のお焼香をすべきでないか」もよく話題になるが、仏葬の形式にならってお焼香を上げるくらいで、キリスト教信仰は失われてしまうものなのだろうのか。他の神を拝むことになるのだろうか。神様はそういうことで、信者をお見捨てになるのだろうか。


 おそらく「○○は偶像崇拝だ」という話に敏感な人は、それだけ信仰を純粋に保ちたいと願っているのだろう。とても真面目なのだと思う。けれど「偶像崇拝」という中身のよく分からない言葉を、いたずらに(呪術的に)恐れていないだろうか。


 キリストは、(要約すると)「礼拝は場所ではなく心でするものだ」と言っている。つまりキリスト教会に足を踏み入れても、自動的に礼拝したことにはならない。たとえば日曜礼拝に初めから終わりまで参加しても、ずっと眠っていたら、「礼拝した」と言えるか微妙だろう。


 それと同じで、偶像崇拝も形や形式の問題でなく、心の問題のはずだ。なぜ偶像崇拝だけ、Cannonのカメラを使うとか、ダイソーで買い物するとか、お焼香を上げるとか、そういう「形」になってしまうのか。心はどこへ行ってしまったのか。


 それに「形」のことで言うなら、今あなたがその手に持ってるスマホはどうなのか。工場で組み立てた人がサタニストかもしれない。運送したドライバーが学会員かもしれない。販売する店員が怪しげな新興宗教の人かもしれない。さて、Cannonやダイソーを気にするなら、そういう可能性もいちいち気にするべきでないだろうか(何も使えなくなりそうだけど)。

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