良いことを言わなきゃいけない「証(あかし)」のしんどさ

2021年7月20日火曜日

教会生活あれこれ

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 クリスチャンは教派によっては「証(あかし)」をするよう求められることがある。

 「証」とはみんなの前で「神様が自分にこんな良いことをして下さいました」と話すことだ。そういう体験が豊富にある人は困らないかもしれない。けれど多くの人はネタに困る。「証をして下さい」と急に言われると困ってしまう。教会あるあるだ。


 良い「証」をするには、日常の中で起こったことを神様と結び付けるセンスが必要だ。自分の身の回りで起こったことは全て神様が見えないところで関わっている、と信じなければ、そもそも「証」はできない(それは逆に、身の回りで起こった悪いことは全て悪魔の仕業だ、と考えることにも繋がる)。だから「単なるこじつけでは?」と思ってしまうような「証」は正直多い。これも教会あるあるだ。


 おそらく「証」を求められたクリスチャンの多くは、「良いことを言わなきゃいけない」「みんなが励まされるような神様の偉大さを話さなきゃいけない」「感動させなければいけない」みたいな暗黙のプレッシャーに晒されている。「証」とはそういうものだと思っているからだ。しかし「クリスチャンだけど、こんなていたらくですよ」みたいなダメさを話す方が、みんな励まされるのではないかなと個人的には思っている。


 この「良いことを言わなきゃいけない」という圧は、半ば強引な「良かった探し」や、話の誇張や脚色を生む(時には完全な捏造さえ生む)。若干大げさな言い方かもしれないけれど、みんなして「神様が一緒のキラキラな日常」を演出するようになるのだ。アングルや背景を作り込んだ写真を、毎日SNSにアップし続けるみたいに。


 しかしそのスパイラルが行き着く先は、「クリスチャンは信仰に立って生きれば祝福されて幸せになれますよ」みたいな宗教版マルチではないだろうか。良い「証」を語り続けなければならない、ネガティブなことは言えない、という雰囲気は、誰を幸せにするのだろうか。


 昔住んでいたところの近くに、ガラス張りのマルチの店があった。常駐している男性がいつもキラキラしていた。彼の「成功の証」たる大きな金のネックレスをまだ覚えてる。


 週末に通りかかるたび、大勢の客で賑わう様子がガラス越しに見えた。みんな笑顔で褒め合い、なにやら賞賛し合っているようだった。今思い出すと、自分の教会とそっくりな雰囲気だったなと気づく。演出されたキラキラだ。

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