誰にとっての「最善」?

2021年8月3日火曜日

教会生活あれこれ

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 「未信者の○○さんが聖書の話を聞いてくれた!」とか「ノンクリの△△さんが一緒に賛美を聞いてくれた!」とか嬉しそうに報告するクリスチャンがいる。その○○さんや△△さんがクリスチャンになる日も近い、と期待してのことだろう。けれど、その○○さんや△△さんは、将来クリスチャンになるために生きてるわけではないし、あなたと付き合っているわけでもない。


 こういう報告を嬉々としてSNS等にあげるクリスチャンはほとんど定期的に現れる。そこには「みんなクリスチャンになるべきだ」とか、「未信者のままでいてはいけない」とかいった考え方があると思う。まるでクリスチャンでないと「一人前でない」かのような。


 これは定期的に書くべきだと思うけれど、「未信者」という言葉には「まだ信じてない人=いつか信じる人=将来のクリスチャン」という入信ありきのニュアンスが含まれている。クリスチャンの手前勝手な願望の押し付け(信教の押し付け)ではないだろうか。はっきり言えば本人の気持ちを無視しているし、厳密に言えば憲法にも違反している。


 「○○さんにクリスチャンになって救われてほしい」とか「△△さんに神様の大きな愛を知ってほしい」とか、もちろん善意からくる思いだろう。それが善意であることは全く否定しない。けれどその「救い」は、あなたが考える救いだ。その「祝福」は、あなたが信じる祝福だ。その○○さんには○○さんの、△△さんには△△さんの、人生や選択がある。それをまず認めなければならない。「クリスチャンになること」は彼らにとって前提でも何でもなく、数ある選択のうちの一つでしかないのだから。それがたとえ自分の子どもであっても、そう考えないとフェアではない。


 「自分の子に最善を願う」のは親として当然だ。けれど、信仰を持っている親が子に同じ信仰を引き継がせるのは、果たして「最善」なのか。それは誰にとっての「最善」なのか。親が安心するための「最善」ではないのか。背負いきれない、背負いたくないものを押し付けられて倒れた子を見ても「最善」だと言い切れるのか。


 「信仰は本当に良いものだから」

 「この人に絶対に必要なのは神様の愛だから」

 そう言って信仰の押し付けを正当化する人もいるだろう。けれど本当に「良いもの」で「必要なもの」なら、その人は自らそれを選ぶのではないだろうか。


 相手に選択の自由を与えているだろうか。「選択の自由を与える」とは、自分が望まない選択を相手がしてもそのまま受け入れるということだ。積極的に伝道するクリスチャンには、そういう覚悟が必要だとわたしは思う。あなたのしようとしていることは、誰にとっての「最善」なのか?

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