「宗教的行動制限」の実情

2016年8月11日木曜日

「偶像崇拝」問題

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 いただいたコメントへの返信という意味も込めて、今回の記事を書きたい。
 そのコメントをまとめると、こんな感じ。

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 家族・親族の葬式があっても「偶像崇拝だから」と言って参加しない・焼香しない身内がいて、同じ理由で墓参りもしない。家族・親族の集まりには参加せず、大変な時も手伝わない。そういう身内なんだけど、もし遺産相続の話が出たら、当然のように権利を主張するものなのか?
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 と、いうコメントだと私は解釈した(間違ってないだろうか?)。たいへん興味深い。

 遺産相続の件はコメント者さん自身も承知していると思うけれど、法的に相続できる立場(親等)にあるなら、いくら仲が悪くても無礼でも非常識でも、 相続する権利はある。周囲の人たちがそれを感情的に良しとしないのは当然だけれど、その思いと法律とは別である。遺書とかあればまた別かもしれないけれど。

 でもコメント者さんの期待する答えはそこではないと思う。普段は家族・親族を軽んじて「信仰」を振り回す人間が、遺産相続のようなタイミングになると「家族ですから」とシレっと言うのを、快く思っていないんだと思う。 私も同感だ。まあその本人からしたら、「自分の信仰に従っているだけ」「家族を軽んじているわけではない」「神の言葉は家族より優先されるから仕方がない」という主張になると思うけれど(つまり、悪いとは思っていない)。

 仏式の葬式や焼香を「偶像崇拝」と決めつけて、避けるよう信徒に教える教会は、聖霊派や福音派あたりに沢山ある。真面目な信徒はそれを信じて、親族や知り合いの仏式葬式に参加しなくなる。「焼香したら悪魔崇拝になってしまう」からだ。結果、家族や親族、あるいは未信者である知人たちとの間に溝ができていく。その溝ははじめは「ちょっと問題」なだけだけれど、そのうち「嫌な印象」になり、「へんな宗教やってやがる」になり、「憎らしい」になり、「あんなやつ家族(友人)とは呼べない」になる。つまり一度できた溝は次第に深まり、最終的には関係断絶レベルになる。
 それは悲しい事態だけれど、教会からしたら「イエス様は剣を送るためにやってきたと書いてある」とか「家族どうしが敵対するようになると書いてある」とか、聖書を都合よく引用して、その状況を肯定する。

 ちなみに言うと「崇拝」には3要件ある。拝む「対象」と拝む「方法」と拝む「意志」だ。その3つが揃わなければ「崇拝」にならない。だから、たとえば焼香しても「○○を崇めます」という明確な意思がなければ、「崇拝」とは言わない。
 逆の場合で考えてみればわかりやすい。たとえば言葉の通じない未開の地の人間を教会に連れてきて、礼拝の賛美中、とにかく立たせて、目を閉じさせて、手を上げさせていれば、形としては「主を賛美し礼拝している」図になる。でも、誰が彼を礼拝者と認めるだろうか。

 焼香でもハロウィンでも何でもいいんだけど、「○○してはならない」という具体的な行動制限(注・殺人とか姦淫とかでなく)を課す宗教は、キリスト教的に言えば証(あかし)にならない。前述したように、焼香しないことで家族間の溝を作るからだ。いくら焼香拒否の神学的論拠を並べ立て、それらしく説明して正当化したとしても、家族の側にはある事実だけが強烈に提示される。すなわち「こいつは死んだ身内を大切にできない」という事実が。あるいは「こいつの宗教は家族を大切にさせない宗教だ」という事実が。
 すると家族はその宗教に対する嫌悪感を抱くだろう。そして家族がいずれどこかで別のクリスチャンと出会い、福音を話されたとしたら、その嫌悪感が否定的に働くだろう。
 つまり、自分の焼香拒否が、未来における家族の「救い」を阻むことにもなりえる。だから「証(あかし)にならない」

 こういう「宗教的行動制限」とそれによる「家族の不和」というケースを、沢山みてきた。いろいろな家族があり、いろいろな事情があるから一概には言えないけれど、一つ興味深い事実がある。その本人(焼香拒否をする本人)がなんらかの窮地に陥った場合、最終的にそれを助けるのは教会の牧師や先輩信徒たちではなく、さんざん嫌な思いをさせられてきた家族たちであることが多い、という事実だ。これは理屈でなく、実際にみてきたことだから否定のしようがない。だから「神の家族の結束は強い」とか「血より濃い絆がある」とか感動的なことを言う人がいるけれど、いざとなったら手のひら返しになる可能性が高いので、あまり信用しない方がいい。また逆に、最終的にどうにもならなくなった時に助けてくれる(可能性が高い)のは家族だけなのだから、家族は大切にしておいた方がいい。

 というわけで焼香拒否とかハロウィン禁止とか、他にも映画禁止とかマンガ禁止とかいろいろあるけれど、そういう「宗教的行動制限」は実績としてロクなことにならないことが多い。その神学的論拠がどうであれ、現実的な状況を省みて、行動を改めるべきだと私は思う。
 また遺産相続はただでさえ家族関係を複雑にさせるけれど、そこに宗教が絡むと余計面倒なことになる。信仰に熱心になるのなら、そのへんのことも熱心に考えて備えておかないと、結果的に家族や周囲の人間に多大な迷惑をかけることになる。そうなったら「独りよがりな信仰」と言われても仕方ないであろう。

■追記
 コメントいただいたメビウスさん(2016.8.10)、ありがとうございました。これでお返事になっていれば良いのですが。

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