2018年11月30日金曜日

奉仕して、祈って、奉仕して

 かつての私の教会での出来事を、一つ紹介しましょう。

牧師「神の民はハードワーカーでなければならない(だから死に物狂いで働け)」
信徒「アーメン」
牧師「しかし同時に、神の前に完全に静まる者でなければならない(だからよく祈れ)」
信徒「ア、アーメン」

 ということで信徒は一生懸命奉仕して、同時に時間を作って一生懸命祈って、という教会生活を送ることになります。『食べて、祈って、恋をして』という映画がありますけれど、うちの場合は「奉仕して、祈って、奉仕して」です(笑)(いや、笑えないぞ)。

 でもそんなことが可能でしょうか。起きている時間フルに働いて、かつ神の前に完全に静まって祈る、なんてことが?

 私や他のスタッフたちが実践したところによると、「どうやら不可能」という結果になりました。ある者は祈るたびに居眠りするようになり、ある者は起きていても眠っているような顔をするようになりました。「働け」と「祈れ」を同時にコマンドされて、フリーズ状態になってしまった者もいたかもしれません。何ということでしょう(←ビフォーアフター風に読んで下さい)。

 真面目な話、それは私たちにとって大きなジレンマでした。単純に考えて、「一生懸命働く」と祈れないし、「完全に静まって祈る」と働けないからです。相反した事象です。蛇と蛙とナメクジの「三すくみ」みたいなもので、右にも左にも動けなくなってしまいます。いったいどうしたらいいのでしょう。

 でもそういうことをスタッフ間で話し合うこともできませんでした。話し合えば遅かれ早かれ牧師の耳に入って、「何をこそこそ話してるんだ」みたいに取られて、問題になるからです(つらっ)。

 さて、そうこうしているうちに(奉仕のしすぎで)体調を崩してしまう信徒が現れました。
 こりゃいかん、ということで、牧師の登場です。

牧師「諸君、働くことと祈ることの両立に、悩んでいるのだろう」
信徒「はい。どうしたらいいですか?」
牧師「私はその答えを得ている」
信徒「その答えは?」
牧師「……各自で祈って考えなさい」

 吉本新喜劇ならここで全員ズッコケるところですが、真剣な面持ちの牧師の前でズッコケるわけにも行きません。曖昧な表情で頷くしかできない、哀れな信徒たちがそこにいました。はい、その中に私もいたのですが(笑)(いや、やっぱり笑えないぞ)。

 結局その「答え」を聞く前に、牧師はいなくなってしまいました。
 だからいくつかの謎が、私たちと共に残されました。

 フルで働いて完全に静まって祈る、その方法とは?
 あの牧師は本当にそれを両立していたのか?
 その前に、あの牧師は本当に「答え」を持っていたのか?

 最近電車の中で、小学生くらいの子供たちがこんな会話をしていました。
A「東京タワーより高くて、スカイツリーより低いものって、なあんだ?」
B「えーわかんない」
C「何々答えは?」
A「答え? うーん、わかんない」

 答えのわからんクイズ出すな! とツッコミそうになりましたが、これを聞いた時に、件の牧師の話を思い出したわけです。

牧師「私はその答えを得ている」
信徒「その答えは?」
牧師「……各自で祈って考えなさい」

 本当はお前も知らないんだろう! とタイムスリップしてツッコミたくて仕方ありませんね。皆さんそういう経験ありませんか(ないことを願う)。

2018年11月28日水曜日

「自分の正当性を主張したいだけ」ではありませんか

 すみません。今日はちょっと毒を吐かせていただきます。

 私は長年カルトっぽい牧師の下で教会生活を送ってきましたので、「牧師」という存在に多少ウンザリしています。もちろんいろんな牧師さんがいるのはわかっているのですが。大半の牧師さんが「良い人」で、問題があるのはごく一部なのでしょう。

 でも少なくない「牧師さん」たちに共通する、ある傾向があるように思います。最近特にそう思うようになりました。どんな傾向かと言うと、「結局は自分の正当性を主張したいだけなんじゃないの」というものです。

 いろいろ相談に乗ってくれたり、話を聞いてくれたり、助言してくれたりする牧師さんを複数見てきましたが、最終的に意見が合わなかったり、方針(?)が合わなかったりすると、「んじゃねー」と去って行くのです。そして聞こえるような聞こえないような微妙なところまで退却してから、「自分は◯◯だと思うんです」みたいな主張を、いかにも自分は正しいんですみたいな顔で吐き捨てていくわけです。

 もちろんこっちは教会員ではありませんから、その牧師さんたちには何の責任もありません。言いたいことを言って何が悪い、といったところでしょう。

 だったら私も言わせてもらいますが、そもそも私から彼らに相談したことはありません。彼らが言ってきたので、私も思うところを返しただけです。彼らが私に何も言わなければ、私も彼らに何も言いません。それだけです。

 彼らの多くは私に同情してくれます。「酷い牧師に辛い目に遭わされたのですね」みたいに。でも結局は私の話なんて聞く気はなさそうです。私が彼らの意に反することを言えば、簡単に「んじゃねー」ですから。
 だったら初めから黙っててほしいんですよね。べつに彼らを悪人だとは思わないのですが。

 もちろん、人それぞれいろんな考え方があるのはわかります。いろんな立場、価値観があるでしょう。でも「キリスト教の牧師」って、人に対してどういう立ち位置を取るべきなのですか。聖書は何と言っていますか。人の話を聞いて支えるべきですか。それとも自分の意見を押し付けるべきですか。

 すみません、ちょっと悶々とすることがありましたので、吐かせていただきましたー。

2018年11月25日日曜日

あなたの知らない「極端な教会被害」という世界?

 このブログを書きはじめた頃、もう5年半くらい前ですが、よくこんなご意見をいただきました。
「それは極端なケースですね」

 キリスト教プロテスタントの、ペンテコステ派の、それもカルト化したごく一部の教会にしか見られないケースだ、というわけです。
 それ自体は事実ですから、「稀なケースだ」というのは間違いないかもしれません。でも私のような当事者に言わせれば、「極端だったら何ですか?」です。極端なケースの被害と、そうでない被害とで、何か違いがあるのですか。もちろん細かい内容は違うでしょう。でも、傷んで苦労したのは同じです。だから極端かどうかなんて、関係ないと私は思ったわけです。

 最近、人権意識が高まっているせいかどうかわかりませんが、メディアやネットの発言が炎上しやすくなっています。先日もドルチェ&ガッバーナが中国で総スカンを食らったばかりですが、あれについて著名人が「極端なケースだよ」なんて言ったらどうなるでしょう。やはり批判されるのではないでしょうか。
 そもそもの話、極端かどうかとういのは、論点としてズレているわけです。

「極端だ」と言われてもう一つ気に入らなかったのは、「極端な(稀な)ケースだから、被害に遭うのはごく一部の人たちに過ぎない」というふうに聞こえる点です。被害者が少なかったら、何ですか? 無視してもいいんですか? なんて当時の私は攻撃的に考えたものです。

 冷静に考えてみますと、これは「教会被害差別」みたいなニュアンスもあると思います。一般的な教会で受けた被害と、一部のカルト化した教会で受けた被害との差別ですね。

 たとえば日本基督教団とかルーテル派とか長老派の人たちは「ああ、そういうイジメって、教会にもあるよね。酷いよね」と教派を越えた共通理解を示すことがあると思います。でも同じ人たちが、ペンテコステ派の一部の変な教会の話を聞くと、「ふーん、そういう変な(極端な)ケースもあるんだね。でもそれって本当にキリスト教?」みたいな冷淡な反応を示すことがあります(もちろん全員ではありません)。

 でもそれは、自分の立場から見える「キリスト教」しか知らなくて、結果的に異質なものをキリスト教として認めない、という差別と同じです。べつに認めなくてもいいんです。でもこれだけは知っておいてもらいたい、という事実があります。すなわち教派がどうであれ、キリスト教会という組織の中で、聖書という教典を使った、信徒虐待が行われている、という事実です。
 そしてその内容が極端であろうがなかろうが、被害者が少数であろうがなかろうが、被害に遭った人たちにとっては、それが「キリスト教」なのです。

 もう一つ付け加えておきますと、キリスト教カルトが「極端」で「少数」だ、というのも私はいまいち同意できません。以前ペンテコステ親交会の教役者大会というのに参加したことがありますが、まあ大勢いましたよ。何百人も入る大きな会場が、超満員でしたからね。
 しかも彼らは全国の教会の教役者やリーダーたちですから、その背後に、もっと大勢(の教会員)がいるわけです。本当に、極端な少数派なのでしょうか。

 一口に「キリスト教」と言っても、実に様々な切り口があります。
 当ブログで取り上げる様々な事例について、「それは極端なケースだ」「ごく一部のおかしな教会の話だ」と思われるかもしれません。でもあなたが知らないだけで、そこには大きな世界が広がっているかもしれませんよ。まさに「あなたの知らない世界」 笑(意味がわからない方はスルーして下さいませ)

 最後に、念のため書いておきますが、私はべつに日本基督教団にもルーテル派にも長老派にも何の恨みもありませんからね 笑

2018年11月21日水曜日

「モラ夫×牧師」のわかりにくさ

 最近「モラ夫」という言葉を知りました。
「モラル・ハラスメントをする夫」という意味かと思います。

「モラ嫁」という言葉はないみたいですから、やはりモラハラをするのは男性が圧倒的に多いのですね。結婚して初めてモラ夫だと判明することが多いみたいですから大変です。何かそれとわかる目印でもあればいいのですが。これから結婚しようとする女性の皆さん、くれぐれも慎重に。

 ところで私の教会の牧師は、今思うと、明らかにモラ夫でした。
 牧師夫人に対して、ものすごく厳しかったのです。いや「厳しかった」と言うより、「異常に高圧的」かつ「脅迫的」でした。

 この話はいろいろなところで何度も書いているのですが、たとえば牧師夫人の用意したお菓子のセンスが悪いとか、掃除の手際が悪いとか、祈りの文言が不適切だとか、そういうことで、牧師は彼女を怒って責めるのです。しかも徹底的に、執拗に、何度も何度もです。

 でも私から見ると、牧師夫人のお菓子のセンスは悪くないし、掃除も普通にできているし、祈りも立派です。態度や言葉遣いが悪いわけでもありません(いやむしろ立派です)。だからなぜ牧師がそこまで怒るのか、理解できませんでした。牧師に言わせれば「同じ失敗を繰り返す女房が悪い」「何度も言わせる女房が悪い」みたいな話なのですが。

 もしそれが牧師夫妻でなく、一般の夫婦で、かつ自分より年下だったら、「ちょっと厳しくしすぎだよ」みたいな言葉が自然に出てくると思います。現場に居合わせたら、思わず止めるかもしれません。それくらい目に余るものがありました。「それはモラハラだ」と判断するのも、難しくなかったでしょう。

 でも実際はそれはキリスト教の牧師で、教会のリーダーで、大勢の信徒のお世話をしていて、(普段は)とっても優しくて、面白くて、気が利いて、聖書にすごく詳しい「聖職者」なのです。十年も二十年も地元で教会をやってきたベテランです。キリストの愛とか許しとか、講壇で涙ながらに語る「神の器」です。

 そういう人物が、妻に対して時々、有り得ないような態度を見せる。これはいったいどう解釈したらいいのか? 信徒としては判断に迷います。まったくの部外者がその光景だけ見て「モラ夫だ」と判断するのと違います。しかも当の牧師が「これは妻に対する霊的訓練だ」と説明し、奥さんも「その通りです。私が悪いんです」なんて言います。信徒の立場で「これはモラハラだ」と判断するのは、残念ながら容易ではありません。

 これは一般にほとんど認知されない、でも実在している「教会の闇」の一つだと私は思います。聖職者である牧師が深刻な人格的問題を抱えているのに、誰もそれに気づかす、あるいは気づいて指摘しても相手にしてもらえず、そうこうしているうちに被害者が深刻なダメージを受けてしまう、という闇です。

 こういった「モラ夫×牧師」あるいは「モラ夫×クリスチャン」は存在しますが、信仰や教会が絡んでいますから、判別しづらいです。もしかしたら皆さんの身近にもいるかもしれません。見えないところで被害者が、ひたすら痛みに耐えているかもしれません。

 だからまず「教会にもそういう問題があるんだ」と理解していただけたらと、私は思います。

2018年11月19日月曜日

そのクリスマスのイベント、目的は何ですか。

 11月も半ば過ぎました。たぶん多くの教会が、クリスマスの準備で忙しくなっているのではないでしょうか。
 以前体験談として紹介させていただいた記事では、クリスマスにミュージカルを披露するために、8月くらいから準備を始めるという教会が登場しました。夏のうちから冬のことを考えて準備をするなんて大変だなあ、と私などは思うのですが、当人たちは大真面目なのでしょうね。出演者のオーディションまでやるみたいですから、ものすごい情熱です(その出来映えとか、どれだけ未信者が来るのかとか、そのへんはよくわかりません)。

 ミュージカルと聞いて一つ思い出すのが、あるキリスト教系幼稚園のクリスマス会です。子供たちの聖劇とか、合唱とかでホノボノする感じのイベントです。でもある年、ミュージカル経験のあるお母さんが、ものすごく本格的な衣装を着て登壇しました。そしてピアノの伴奏に合わせて、ものすごいソプラノボイスを披露するわけです。もう子供たちの劇とか歌とか、全部すっ飛んでしまいましたね。幼稚園のクリスマスと言うより、そのお母さんのリサイタルみたいになってしまいました。

 8月から準備するミュージカルも、ソプラノボイスのお母さんも結構なのですが、私たちが案外見落としてしまいやすいのが、「何のためにやるのか」という視点です。そのイベントは、何のためにやるのか。誰のためにやるのか。目的は何なのか。どこかに無理が掛かっていないか。

 私の教会もクリスマスには力を入れていました。コンサートを開いたり、キャロリングで街を練り歩いたり。スタッフは毎日遅くまで残って、準備しました。でもそうやって皆で苦労した結果、未信者がどれくらい来たか? 全然来ません。じゃあ何のためにやったの? 信徒がクリスマスを楽しむため? その信徒たちが連日遅くまで残って、大変な思いをしてたのですが。クリスマスが終わる頃には、皆ヘトヘトでしたよ。

 何と言うか、目的不在じゃないでしょうか。未信者のためでもない、信徒のためでもない。ただ「クリスマスだから何かやる」みたいな感覚。

 ある教会は、信徒の子供たちにノルマを課していました。クリスマスのイベントに友達を何人連れてきなさい、みたいなノルマです。子供たちはポイントカードみたいなものを渡されて、「友達1人につきシール1枚貼ってあげる」と言われます。学校で同級生たちに声を掛けまくることになるわけです。

 その結果どうなるでしょう。誘われた子たちの何人かは教会に来ますが、定着することはほとんどありません。そして誘った方の子供たちは、学校で「宗教やってる変な奴」というレッテルを貼られてしまいます。下手すると、まともな学校生活を送れなくなってしまいます。
 それはいったい誰のための、何のためのクリスマスだったのでしょうか。私にはよくわかりません。

  もちろんやる気のある人たちが集まって、練習したり準備したりするのはいいと思います。「クリスマスくらい教会に行ってみたい」という未信者の人もいるでしょう。「心のこもったクリスマス・コンサートがしたい」という教会の純粋な思いまで、否定する気はありません。

 ただ信徒を必要以上に駆り立てて、忙しくさせて、大変な思いをさせて、その結果何だったかわからない、みたいなクリスマスはご遠慮願いたいわけです。そういうのを何年も何十年も繰り返しているのに、誰も声を上げない、文句が言えない、みたいな状況が一部の教会にあります。だからここで、私が声を上げることにした次第です。

 教会に属しておられるクリスチャンの皆さん、どうぞ平和で楽しいクリスマスをお過ごし下さい。

2018年11月15日木曜日

クリスチャンは賛美を歌わなきゃいけないんですか?

 キリスト教の礼拝に行くと必ず「賛美」の時間があって、みなで合唱することになります。
聖歌や讃美歌、ゴスペル、この時期で言えばクリスマスキャロルなど、まあキリスト教は「歌」と関係が深いです。だからクリスチャンを長くやっていると、ある程度歌が上手くなることが多いです。
 私も音楽の授業は苦手でしたが、教会で歌うのは(慣れたので)特に抵抗ありません。鼻唄まじりに仕事をすることさえあります。上手じゃありませんけど。

 でも中には、歌が嫌いな人もいます。
 知り合いも「教会に行くのはいいけど、歌わなきゃいけないのが嫌だ」みたいなことを言っていました。嫌な人には苦痛ですよね。礼拝の賛美は、どの教会も最低20分くらいは掛かりますから(長いところはもっと)、確かに辛いものがあります。

 そんな人のために、ここで幾つか、礼拝で歌わなくて済む裏技(?)を紹介しましょうか。

歌わなくていい裏技① 何かの奉仕をする
 たとえば奏楽、音響、パワポ操作などの奉仕をすれば、歌わなくて済みます。

歌わなくていい裏技② 賛美が終わった頃に入る
 礼拝が始まって30分くらいしてから入れば、たぶん歌わなくて済みます。

歌わなくていい裏技③ 歌声が大きい人の近くに座る
 口パクで済みます。

歌わなくていい裏技④ 最前列の端に座る
 ここは意外と注目されません。みんなから後頭部しか見えませんから、歌っているかどうかもわかりません。

 半分冗談なのですが、良ければお試し下さい。
 ちなみに私は新しい教会に行くことが多いですので、よく②を使います。賛美が嫌なのでなく、あまり気づかれずに入りたいからですね 笑

 もう一つ関係ない裏技ですが、礼拝が始まってから教会に入り、終わる寸前に出れば、ほとんど誰にも声を掛けられずに済みますよ 笑

☆ ☆ ☆

 よく「賛美の中に主が住まわれる」という聖句を引用して、「賛美は心を込めて、力の限り歌わなければならない」みたいなことを言う人がいます。全力で歌え、それが礼拝だ、というわけです。

 でも「歌を歌え」と明確に命じているのは、旧約聖書です。新約聖書はそこまで厳しいことを規定していません。イエスも礼拝で大事なのは「霊とまこと」だと言っています。場所や形式は重要じゃないんだよ、と。ということは、歌うことは礼拝の絶対条件ではないはずです。

 私に言わせれば、礼拝のために時間を作って、教会まで行って、幾らかの献金を捧げて、その時間(1時間くらいでしょう)神様に心を向けるなら、それで十分です。立派な礼拝です。歌が上手いか下手か、歌うか歌わないか、そういうのは本質ではありません(もちろん歌っていいんですよ)。

 むしろ歌が上手いと、カラオケみたいに盛り上がってしまい、礼拝だか何だかわからなくなる恐れがあります。よく大声で歌って上手なのをアピールする人とか、気持ち良くなっている人とか、頼まれもしないのにハモリの部分を大声で歌って主旋律を邪魔する人とかいますが、そういうのはカラオケでやってくれです。

 でもプロテスタント教会の一部では、誰が歌っているか、誰が歌っていないか、誰が上手か、なんてことが殊更気にされる傾向にあります。面倒くさいですね。もっと自由でいいと思いますし、もっと放っておかれていいと思います。それにそうやって他人のことを気にしている本人は、礼拝に心を向けているのでしょうか。
 礼拝警察なんて、要りません。

 というわけで、賛美は必ず歌わなければならないものではありません。何なら歌詞を目で追うだけでもいいですし、呟くだけでもいいです。みなの歌声に耳を傾けるのもいいでしょう。
 その時間を心安らかに過ごすことの方が、よっぽど大切だと私は思います。

2018年11月12日月曜日

教会は神権政治? 議会政治?

 教会政治の話になると、私の牧師はほとんど必ずこんなことを言いました。
「神の国は民主主義なんかじゃない。神権政治だ。だからこの教会も、神の統治に完全に従わなければならない」

 そこで思い出すのが旧約の士師記の時代です。王がなく、預言者を通して語られる神の言葉を頼りに、それぞれの部族が自立的に暮らしていた時代です。真の統治者は人間にあらず、神である、というわけですね。

 それはいかにも「聖書的」だと、私たち信徒は思いました。
「神ご自身が統べ治める教会」
 なんと心地よい響きでしょう。
 だから私たちはすぐ「アーメン」と同意して、牧師の言う「神権政治」を受け入れました。

 で、どうなったかと、「牧師の独裁」です。
 結局のところ、神の御心を代弁するのは牧師なのですから。

「神が新会堂を求めておられる」
「海外のこれこれのカンファレンスに参加するよう導かれた」
「キッズミニストリーのためにマイクロバスを買うよう主が願っておられる」
「偉大な神の器を送迎するのに、安い車では駄目だと主に叱られてしまった」

 そのたびに無茶な献金を強いられました。中には借金までした信徒もいました。
 とにかくお金のかかる「神の御心」でした。私たちは什一献金を当然のように捧げていましたが、トータルでは什二とか什三とか捧げていたと思います。
 でもその「神の御心」に、誰が疑いを向けられるでしょう。「本当ですか?」なんて尋ねれば、牧師室に呼び出されることになります。

 それに古参の信徒の中にも、「牧師先生が一番神様の声に敏感なのだ」みたいな擁護をする人が何人かいました。だから「牧師先生の言葉は神の言葉だ」みたいな共通認識が教会全体に出来上がっていくのでした。その中で疑いを口にすれば、「不信仰だ」とか、「疑う者は祝福を受けられない」とか、まあ散々に言われてしまうわけです。酷いと「悪魔の手先」扱いです。

 そういう教会のコミュニティで生きようとする限り、「牧師の言葉=神の言葉」を受け入れねばなりません。

 でもキリスト教の歴史をみてみますと、いくつかの公会議で正統教義が決められてきた事実があります。三位一体も公会議で認められた概念です。

 そういうことを考えますと、神は一方的に何かを押し付けるやり方はしないのではないでしょうか。むしろ人々が集まって、話し合って、ぶつかったり歩み寄ったりしながら、何かを決めていくプロセスを尊重される気がします。その意味では、教会はむしろ議会政治なのではないでしょうか。

 神権政治なんて、幻想に過ぎません。神の名を騙る牧師の、独裁政治の方便です。神権政治を主張する牧師がいたら、ぜひこの記事を思い出して下さい。そして私たち信徒が何も知らずに耐えてきた歳月を、考えてみて下さい。どうぞ、同じ被害に遭いませんように。

2018年11月10日土曜日

「神にあって不可能はない」の恐怖

 神の言葉は「福音」のはずですが、場合によっては「呪い」となることがあります。
 今回はそんな話をしたいと思います。

☆ ☆ ☆

 私の教会は、みんなで奉仕を頑張る教会でした。

 牧師いわく「教会は客船でなく戦艦だ」というわけで、誰も「お客さん」ではいられなかったのです。みんな兵隊です。みんなそれぞれ役割(奉仕)があって、それに命を賭けなければなりません。

 しかもその牧師にはよくこう言われました。
どんな奉仕においてもプロフェッショナルを目指せ
 やるからには本気で、全身全霊でやらなきゃ意味がない。その道のプロになるくらいの覚悟でいけ。というわけです。

 だからギタリストはプロのミュージシャンを目指さなければならないし、ポスターの製作者はプロのデザイナーを目指さなければなりません。今思うととんでもない話なのですが、そういう教会でした(もちろん誰もプロになんかなれませんでしたが)。

 この「奉仕においてプロを目指せ」という言葉は、よくピリピ人への手紙4章13節とセットで語られました。こんな言葉です。

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(口語訳)

 神様を信じる私たちは、何でもすることができるのだ、と牧師はよく言いました。「不可能を可能にする」というのも牧師の好きな言葉でした。
 だから私たち奉仕者がちゃんと「聖霊に満たされる」なら、プロにだって何にだってなれるんだよ、というわけです。

 ここで、私たち信徒は葛藤することになります。こんな葛藤です。

プロになるのは大変なことだけれど、聖霊に満たされ続けるなら、可能なんだ。

でもまだ、自分はプロにはなれていない。ということは、聖霊に満たされていないのか?

聖霊に満たされるために、もっと一生懸命祈らなければならない。

(一生懸命祈る)(奉仕も頑張る)

でもやっぱり、いくら頑張っても、プロにはなれない。

ということは、自分はまだ聖霊に満たされていないのではないか・・・。

 無限ループです。

 これはいわゆる「洗脳」の一つのパターンだと私は思います。まったく見えてこないゴールに向かって、盲目的に、ひたすら走り続けることになるからです。目の前にニンジンをぶら下げられた、哀れな馬みたいな。いつまで走っても、そのニンジンにたどり着くことはできません。

 私たち信徒は「聖霊に満たされれば到達できる」という言葉を信じて、ひたすら奉仕に励みました。ある人たちはある程度の成果を得ました。しかしある人たちは挫折し、体調を崩し、精神のバランスを崩してしまいました。でもそんな彼らは、牧師にかかれば「信仰が足りない人」「祈りが足りない人」「覚悟が足りない人」になってしまいます。

 ある時、私は新しいデザインの週報を印刷業者に持ち込んで、印刷をお願いしました。
 たしか木曜日あたりのことです。業者から、納期は一週間だと伝えられました。それをそのまま牧師に伝えました。すると牧師はこう言います。
「それじゃ次の日曜に間に合わないだろ。なんとかして納期を短縮して、日曜に間に合わせろ」
 つまり木曜に発注したものを、土曜までに納めてもらえ、ということです。どれだけ無茶な話でしょう。でもそこで反論したら牧師がどう反応するかわかっていましたから、私は「やるだけやってみよう」と思いました。やれるだけやって、駄目なら駄目で、そう牧師に伝えるだけですから。

 それでもう一回業者に行って、なんとかして土曜までに納めてほしい、どうしても必要なんです、と頭を下げました。すると渋々でしたが、なんとか承諾してもらうことができました(本当に迷惑をかけてしまいました)。
 それを牧師に伝えると、今度はこうです。

ほら、できるだろう。主にあって不可能はないんだ

 つまり奉仕においてある程度の成功をおさめることで、はじめて私たちは「信仰の人」になれるのですね。考えてみれば、これは恐ろしい世界です。完全なる能力主義、あるいは成果主義 の世界です。

 こういう世界における「神にあって不可能はない」という言葉は、「福音」でなく「呪い」ではないかと、私は思います。
 さて皆さんは、どう考えるでしょうか。

2018年11月7日水曜日

疲れた時こそ聖書を読むべきですか?

 ある牧師の話です。

 牧会のいろいろで疲れ果てて、もう祈る気力もない、何もできない、という状態になったそうです。それで何となく聖書を開いたら、ちょうど詩篇だった。詩篇作者の苦悩がそこに書かれていた。ああ自分もこんな心境だな、と思いながら読み進めると、不思議と力が湧いてきた。そして気づくと泣きながら祈り、賛美の歌を歌っていた、という。

「聖書は霊的な書物だから、読むだけで霊の栄養になるのです。そして自分でも気づかないうちに、霊の力を受け取っているのです」というのがその牧師の主張です。「だから皆さん、疲れた時こそ聖書を読みましょう!」

 当時私はクソ真面目でしたから、「そうか」と思って実践しようと試みました。
 仕事で疲れて眠たい時なんかに、頑張って聖書を開いてみます。ちょうど聖書の半分あたりが詩篇ですから、何となくそのへんを狙います(ズルイですよね)。そうやって詩篇を読みながら、自分の霊に力がみなぎってくるのを感じよう感じようとするわけです。実際には何も感じやしないのですが。

 結局その試みは長続きしなかったです。疲れた時はどうしても集中できないからです。聖書の細かい文字を追っても全然頭に入ってきません。同じ行ばかり何度も読む羽目になります(そういう経験、ありませんか?)。

「疲れた時、弱った時こそ聖書を読もう」
「聖書は生きる力、霊の糧です」

 みたいなセリフを一部の牧師は盛んに言います。でも冷静に考えてみて、精神論や根性論の域を出ません。疲れた時は素直に休んだ方がいいです。可能な限りゆっくり寝ましょう。
 イエスも言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。「無理して聖書を読め」なんて言いません。

 聖書を「心の万能薬」みたいに考える向きもありますが、やはり書物ですから、読むための気力やエネルギー、心の余裕などが必要です。たとえば本当に心配で心配で仕方ない時、あるいはとても急いでいる時、「力がみなぎってくるまでゆっくり」聖書を読めますか。読めませんよね。

 私の考えでは、聖書はどちらかと言うと「学ぶべきもの」です(もちろんそれ以外の側面もありますよ)。だから腰を落ち着けて、ある程度まとまった時間が取れる時に、じっくり読んだ方が結果的には良いかと思います。

 そういうのを無視して、
「読まないから弱るんだ」
「御言葉で強められれば大丈夫」
「暗唱するまで読みなさい」
 などと強要するのはほとんど虐待ではないでしょうか。

 ある時、辛いことがあってものすごく弱っている信徒がいました。牧師はその信徒のところに行って、最初こそハグしたり慰めたりしましたが、最終的には「もっと祈りなさい」「聖書を読みなさい」「強くなりなさい」と叱咤しました。いえ叱咤と言うより、ほとんど怒ってましたね。

 そういう牧師は「霊的」云々の前に、人間について学び直してこい、と私は思います。

2018年11月4日日曜日

クリスチャンは「結婚のためのリスト作り」をして「待つ」べきですか

 私の知っている教会群では、結婚は牧師の許可制で、信徒はひたすら「待つもの」と教えられていました。

 ある女性信徒の言葉です。
「結婚は神様からの贈り物ですから」

 結婚は神様が用意して導いてくれるものだから、自分としては信じて待つしかない、というような意味ですね。なんて控え目な考え方だろう、と私は正直思いました。自分の気持ちや意志はないのだろうか、と。

 もちろん恋愛も結婚も、しようと思ってできるものではありません。したくなくてもする羽目になることもあるでしょう。相手があってのことですから、自分の意思だけで完結できるものではありません。
 でもある程度自分の意思を働かせないと、進むものも進まないのではないかな、と私は思ったわけです。

 もちろん自分の意思を働かせたところで、(その教会群では)牧師に阻まれることが多々ありましたが。もしかしたらそういう葛藤が、結果的に「待つしかない」という心境に至らしめたのかもしれません。
 でもそうやって待ったまま四十代、五十代になる人が少なくありませんでしたから、やはりそのやり方は考えものではないでしょうか。

☆ ☆ ☆

 結婚を「待つ」方法の一つとして、「結婚のためのリスト作り」というのが教えられていました。

「結婚相手に望む条件を幾つでも書き上げて、そのリストを片手に、十年でも二十年でも祈り続けなさい。神様が良しとされた時、きっと与えられるから」
 というわけです。

 この「結婚のためのリスト作り」は、一時期流行ったように記憶しています(今もあるのでしょうか)。
 結婚相手に望む特徴を、いくつでも思いつく限りリストアップしていくのです。項目が多ければ多いほど良い、と言われていました。それだけ詳細にイメージしておけば、実際に出会ったときに神様からのものかどうか判別できるから(?)、だそうです。

 ある男性信徒はこのリスト作りを実践していました。見せてもらったことはありませんが(見る気もありませんでしたが)、五十個ほどの項目(条件)になっていたそうです。ちなみに彼自身は若くはありませんでした。

 で、その彼があるとき、他教会の牧師の娘さんとお見合い(みたいなこと)をすることになりました。彼は「ついにこの時が来たか」と大興奮。でも実際会ってみると、好感触だったにも関わらず、リストと違う点が幾つかあり、主任牧師の反対もあって、泣く泣く諦めたそうです。

 でもこれ、逆に言うと五十個もの条件のほとんどに合致した、ということですよね。それだけでも奇跡的だと思うのですが。わざわざ自分でハードルを上げて、自ら転んでしまったような感じではないでしょうか。

 それにそもそもリストは自分の願望を挙げただけなのですから、それがそのまま「神様が備えられた相手」になるというのもおかしな話です。自分で作ったリストに神の意志が間違いなく働いているなどと、どうして自信を持って言えるのでしょう。彼には気の毒なのですが、今思うとそういう矛盾点がいろいろ見えてきます。

☆ ☆ ☆

 以上は私が知っている聖霊派教会群でのお話です。
 他の教団教派の方からしたら、異様な光景かもしれません。

 福音派の知人から聞いた話ですが、そこではむしろ結婚が推奨されているようです。どんどん結婚して、どんどん子供をつくりなさい、みたいな。信徒の頭数が増えればそれだけ献金額が増えるからだろう、と私は勝手に邪推したのですが。

 でもそっちの方が教会の未来のためになる気がします。上記の聖霊派教会群みたいに結婚を制限して待たせていたら、いわゆる再生産が行われませんから。高齢化ばかりが進んでしまいます。

 いずれにせよ、信仰や教えを駆使して、信徒の結婚の自由を奪うのはいけません。心当たりのある方、よくよくご注意下さいませ。

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本日(11/4)発行のメルマガ第43号では、以下の点について書いています。

・クリスチャンの結婚を妨げる第一の壁:牧師様の言う通り?
・第二の壁: 独身の賜物?
・第三の壁:「慰め」から「迷い」への逆転。
・第四の壁:結婚のためのリスト作り?
・そして全ての「壁」は幻だった……。

興味のある方はぜひご購読下さい。

2018年11月2日金曜日

「教会」という看板を掲げた社交クラブになっていませんか

 今回はちょっと厳しいことを書いてしまいます。
 プロテスタント教会で熱心に頑張ってらっしゃる方は読まない方がいいかもしれません。

☆ ☆ ☆

 プロテスタント教会で長年信仰生活を送っておられる皆さんは、基本的に「いい人」たちだと私は思っています。「悪い人」はほとんどいません。カルト化教会でさえ、問題の大部分は牧師個人にあって、それ以外の人たちはみな「善良」です。

 ただ「いい人」だから良い、「善良」だから良い、ということにはなりません。ちゃんと考えたり行動したりしないと、害悪になり得ます。「地獄への道は善意で舗装されている」なんて言葉もありますが、「いい人」が99人いても、1人の悪を傍観するなら、結局は全員が悪を行ったのと同じことになります。
 もちろんこれは、キリスト教界に限った話ではありませんが。

 私の職場に1人、問題のある職員がいました。毎日仕事をサボって平気な顔をしているのです。でも大した影響がないので(それはそれで問題ですが)、誰も何も言いません。上司までもが「まあまあ」と流します。でも私は直接的に迷惑を被る立場にありましたから、しばらく様子を見た上で「それは違反です」と言いました。そして上司に必要な対応を取ってもらいました。

 結果、その職員は真面目に働くようになり、雰囲気が全然良くなりましたね。
 ただそこに至る過程はけっこう大変でした。その職員との関係が拗れたり、上司にあれこれ掛け合わなければならなかったりと、業務以外のストレスが大きかったからです。放っておいた方がラクかも、と考えたくらいです。

 私に言わせれば、「いい人」というのはそういう面倒事を避けて「いい顔」してるだけです。問題に直面するより傍観する方がラクですから。
 べつにそのことを責めるつもりはありませんが、それで自分を「いい人間」だと思っているなら、とんだ勘違いだと言っておきます。

☆ ☆ ☆

 ある教会の話です。
 そこの牧師は牧師夫人をきつく叱るのが日常茶飯事でした。用意したお菓子のセンスが悪いとか、掃除が行き届いてないとか、電話にすぐ出ないとか、そういう些細なことですぐ怒鳴りつけます。でも夫人は申し訳なさそうに謝るだけで、文句一つ言いません。信徒のAさんはその様子をみて、「これは問題ではないか」と思うようになりました。

 それで先輩信徒や副牧師に相談したのですが、みな口を揃えてこう言ったそうです。
「夫婦のことに、外野が口を出すべきではない。祈って見守りなさい」

 余計なお世話だ、というわけです。
 でもその教会の皆さん、誰々が何をした、何処にいた、と余計なお世話を焼くのが好きなはずでしたけどね。

 いずれにせよそんな感じで、誰も牧師夫人のために動こうとしません。Aさんも結局、自分だけではどうすることもできませんでした。
 しかし数年後、牧師によるDVが発覚しました。Aさんが心配した通りだったのです。

 Aさんいわく、牧師の夫人に対する態度は、誰が見ても問題だと感じるレベルでした。つまり教会全体が、そのことに多少の差はあれ気づいていたはずなのです。でもみな傍観するだけでした。その口で「良きサマリヤ人にならせたまえ」とか祈るのですから、とんだ茶番だと私は思うのですが。

 同じような例は他にもあります。
 知的障がいがあって聖書をうまく開けない若者が、礼拝中ずっと放置されていました。
 足が不自由で杖を使って歩く婦人が、一人で教会の階段を降りていきました。
 点字聖書が必要なのに、倉庫にしまわれてしまいました。
 もちろん全てをカバーし、全てをフォローすることはできません。でもたった一言、声を掛けるだけならできるはずです。そうではありませんか。

 教会の中に、虐げられている人はいませんか。いるのを知っていて傍観していませんか。自分には関係ないとか、自分が言うべきでないとか、都合のいい言い訳で誤魔化していませんか。クリスチャンは行動すべきです(と私は信じています)。

 もし誰も行動しないなら、そこは教会ではありません。「教会」という看板を掲げた社交クラブか何かです。