疲れた時こそ聖書を読むべきですか?

2018年11月7日水曜日

教会生活あれこれ

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 ある牧師の話です。

 牧会のいろいろで疲れ果てて、もう祈る気力もない、何もできない、という状態になったそうです。それで何となく聖書を開いたら、ちょうど詩篇だった。詩篇作者の苦悩がそこに書かれていた。ああ自分もこんな心境だな、と思いながら読み進めると、不思議と力が湧いてきた。そして気づくと泣きながら祈り、賛美の歌を歌っていた、という。

「聖書は霊的な書物だから、読むだけで霊の栄養になるのです。そして自分でも気づかないうちに、霊の力を受け取っているのです」というのがその牧師の主張です。「だから皆さん、疲れた時こそ聖書を読みましょう!」

 当時私はクソ真面目でしたから、「そうか」と思って実践しようと試みました。
 仕事で疲れて眠たい時なんかに、頑張って聖書を開いてみます。ちょうど聖書の半分あたりが詩篇ですから、何となくそのへんを狙います(ズルイですよね)。そうやって詩篇を読みながら、自分の霊に力がみなぎってくるのを感じよう感じようとするわけです。実際には何も感じやしないのですが。

 結局その試みは長続きしなかったです。疲れた時はどうしても集中できないからです。聖書の細かい文字を追っても全然頭に入ってきません。同じ行ばかり何度も読む羽目になります(そういう経験、ありませんか?)。

「疲れた時、弱った時こそ聖書を読もう」
「聖書は生きる力、霊の糧です」

 みたいなセリフを一部の牧師は盛んに言います。でも冷静に考えてみて、精神論や根性論の域を出ません。疲れた時は素直に休んだ方がいいです。可能な限りゆっくり寝ましょう。
 イエスも言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。「無理して聖書を読め」なんて言いません。

 聖書を「心の万能薬」みたいに考える向きもありますが、やはり書物ですから、読むための気力やエネルギー、心の余裕などが必要です。たとえば本当に心配で心配で仕方ない時、あるいはとても急いでいる時、「力がみなぎってくるまでゆっくり」聖書を読めますか。読めませんよね。

 私の考えでは、聖書はどちらかと言うと「学ぶべきもの」です(もちろんそれ以外の側面もありますよ)。だから腰を落ち着けて、ある程度まとまった時間が取れる時に、じっくり読んだ方が結果的には良いかと思います。

 そういうのを無視して、
「読まないから弱るんだ」
「御言葉で強められれば大丈夫」
「暗唱するまで読みなさい」
 などと強要するのはほとんど虐待ではないでしょうか。

 ある時、辛いことがあってものすごく弱っている信徒がいました。牧師はその信徒のところに行って、最初こそハグしたり慰めたりしましたが、最終的には「もっと祈りなさい」「聖書を読みなさい」「強くなりなさい」と叱咤しました。いえ叱咤と言うより、ほとんど怒ってましたね。

 そういう牧師は「霊的」云々の前に、人間について学び直してこい、と私は思います。

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