「教会」という看板を掲げた社交クラブになっていませんか

2018年11月2日金曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
 今回はちょっと厳しいことを書いてしまいます。
 プロテスタント教会で熱心に頑張ってらっしゃる方は読まない方がいいかもしれません。

☆ ☆ ☆

 プロテスタント教会で長年信仰生活を送っておられる皆さんは、基本的に「いい人」たちだと私は思っています。「悪い人」はほとんどいません。カルト化教会でさえ、問題の大部分は牧師個人にあって、それ以外の人たちはみな「善良」です。

 ただ「いい人」だから良い、「善良」だから良い、ということにはなりません。ちゃんと考えたり行動したりしないと、害悪になり得ます。「地獄への道は善意で舗装されている」なんて言葉もありますが、「いい人」が99人いても、1人の悪を傍観するなら、結局は全員が悪を行ったのと同じことになります。
 もちろんこれは、キリスト教界に限った話ではありませんが。

 私の職場に1人、問題のある職員がいました。毎日仕事をサボって平気な顔をしているのです。でも大した影響がないので(それはそれで問題ですが)、誰も何も言いません。上司までもが「まあまあ」と流します。でも私は直接的に迷惑を被る立場にありましたから、しばらく様子を見た上で「それは違反です」と言いました。そして上司に必要な対応を取ってもらいました。

 結果、その職員は真面目に働くようになり、雰囲気が全然良くなりましたね。
 ただそこに至る過程はけっこう大変でした。その職員との関係が拗れたり、上司にあれこれ掛け合わなければならなかったりと、業務以外のストレスが大きかったからです。放っておいた方がラクかも、と考えたくらいです。

 私に言わせれば、「いい人」というのはそういう面倒事を避けて「いい顔」してるだけです。問題に直面するより傍観する方がラクですから。
 べつにそのことを責めるつもりはありませんが、それで自分を「いい人間」だと思っているなら、とんだ勘違いだと言っておきます。

☆ ☆ ☆

 ある教会の話です。
 そこの牧師は牧師夫人をきつく叱るのが日常茶飯事でした。用意したお菓子のセンスが悪いとか、掃除が行き届いてないとか、電話にすぐ出ないとか、そういう些細なことですぐ怒鳴りつけます。でも夫人は申し訳なさそうに謝るだけで、文句一つ言いません。信徒のAさんはその様子をみて、「これは問題ではないか」と思うようになりました。

 それで先輩信徒や副牧師に相談したのですが、みな口を揃えてこう言ったそうです。
「夫婦のことに、外野が口を出すべきではない。祈って見守りなさい」

 余計なお世話だ、というわけです。
 でもその教会の皆さん、誰々が何をした、何処にいた、と余計なお世話を焼くのが好きなはずでしたけどね。

 いずれにせよそんな感じで、誰も牧師夫人のために動こうとしません。Aさんも結局、自分だけではどうすることもできませんでした。
 しかし数年後、牧師によるDVが発覚しました。Aさんが心配した通りだったのです。

 Aさんいわく、牧師の夫人に対する態度は、誰が見ても問題だと感じるレベルでした。つまり教会全体が、そのことに多少の差はあれ気づいていたはずなのです。でもみな傍観するだけでした。その口で「良きサマリヤ人にならせたまえ」とか祈るのですから、とんだ茶番だと私は思うのですが。

 同じような例は他にもあります。
 知的障がいがあって聖書をうまく開けない若者が、礼拝中ずっと放置されていました。
 足が不自由で杖を使って歩く婦人が、一人で教会の階段を降りていきました。
 点字聖書が必要なのに、倉庫にしまわれてしまいました。
 もちろん全てをカバーし、全てをフォローすることはできません。でもたった一言、声を掛けるだけならできるはずです。そうではありませんか。

 教会の中に、虐げられている人はいませんか。いるのを知っていて傍観していませんか。自分には関係ないとか、自分が言うべきでないとか、都合のいい言い訳で誤魔化していませんか。クリスチャンは行動すべきです(と私は信じています)。

 もし誰も行動しないなら、そこは教会ではありません。「教会」という看板を掲げた社交クラブか何かです。

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