教会は神権政治? 議会政治?

2018年11月12日月曜日

教会生活あれこれ

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 教会政治の話になると、私の牧師はほとんど必ずこんなことを言いました。
「神の国は民主主義なんかじゃない。神権政治だ。だからこの教会も、神の統治に完全に従わなければならない」

 そこで思い出すのが旧約の士師記の時代です。王がなく、預言者を通して語られる神の言葉を頼りに、それぞれの部族が自立的に暮らしていた時代です。真の統治者は人間にあらず、神である、というわけですね。

 それはいかにも「聖書的」だと、私たち信徒は思いました。
「神ご自身が統べ治める教会」
 なんと心地よい響きでしょう。
 だから私たちはすぐ「アーメン」と同意して、牧師の言う「神権政治」を受け入れました。

 で、どうなったかと、「牧師の独裁」です。
 結局のところ、神の御心を代弁するのは牧師なのですから。

「神が新会堂を求めておられる」
「海外のこれこれのカンファレンスに参加するよう導かれた」
「キッズミニストリーのためにマイクロバスを買うよう主が願っておられる」
「偉大な神の器を送迎するのに、安い車では駄目だと主に叱られてしまった」

 そのたびに無茶な献金を強いられました。中には借金までした信徒もいました。
 とにかくお金のかかる「神の御心」でした。私たちは什一献金を当然のように捧げていましたが、トータルでは什二とか什三とか捧げていたと思います。
 でもその「神の御心」に、誰が疑いを向けられるでしょう。「本当ですか?」なんて尋ねれば、牧師室に呼び出されることになります。

 それに古参の信徒の中にも、「牧師先生が一番神様の声に敏感なのだ」みたいな擁護をする人が何人かいました。だから「牧師先生の言葉は神の言葉だ」みたいな共通認識が教会全体に出来上がっていくのでした。その中で疑いを口にすれば、「不信仰だ」とか、「疑う者は祝福を受けられない」とか、まあ散々に言われてしまうわけです。酷いと「悪魔の手先」扱いです。

 そういう教会のコミュニティで生きようとする限り、「牧師の言葉=神の言葉」を受け入れねばなりません。

 でもキリスト教の歴史をみてみますと、いくつかの公会議で正統教義が決められてきた事実があります。三位一体も公会議で認められた概念です。

 そういうことを考えますと、神は一方的に何かを押し付けるやり方はしないのではないでしょうか。むしろ人々が集まって、話し合って、ぶつかったり歩み寄ったりしながら、何かを決めていくプロセスを尊重される気がします。その意味では、教会はむしろ議会政治なのではないでしょうか。

 神権政治なんて、幻想に過ぎません。神の名を騙る牧師の、独裁政治の方便です。神権政治を主張する牧師がいたら、ぜひこの記事を思い出して下さい。そして私たち信徒が何も知らずに耐えてきた歳月を、考えてみて下さい。どうぞ、同じ被害に遭いませんように。

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