聖書は「躾け」としての「体罰」を容認しているのですか?

2018年6月8日金曜日

教育

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 以前通っていた教会で、ちょっとしたベビーブームがありました。

 同じような時期に、赤ちゃんが何人も生まれたのです。
 さっそく教会堂に簡易的な母子室が作られ、ミルク用の給湯器が設置されました。玄関にはベビーカーが並びます。あちこちで赤ちゃんの泣き声が上がり、空き時間には、皆で赤ちゃんの相手をします。小規模な教会でしたので、皆でその雰囲気を楽しみました。

 教会に私たちの赤ちゃんたちが与えられた、みたいな感じだったのですね。

 育児に関するセミナーも、開かれるようになりました。
「聖書的な育児」「子供に信仰を伝える方法」「子供の躾け方」みたいな話です。ちょうど同じ時期に「子供の為の10の祈り」とか「夫婦のための10の祈り」とかいったハウツー本も出版されて、教会は「次世代育成」に否応なしに邁進することになりました。これぞ主の導きだ、みたいな感じで。

 さて数年後、赤ちゃんたちが幼児になると、今度は「どのように躾けるか」がフォーカスされるようになりました。
 そこで「次世代育成に重荷を持つ牧師」が聖書を片手にこう言います。
子供は愚かさに繋がれている。だから適切にムチを与えなければならない

 要は体罰を与えるべし、ということです。

 ちなみに「子供が愚かさに繋がれている」というのは、箴言22章15節からの引用ですね。
 とにかくそういうわけで、親たちは子供が言うことを聞かない時、ムチを与えるようになりました。

 もちろん、手当たり次第ではありません。一応ルールがありました。たとえば子に事前に警告しておくとか、叩くのはお尻だけとか、終わったらハグするとかですね(他にもいろいろ)。

 ある時、ある子が礼拝中にやらかして、その親がムチを与えました。人目につかないように、教会の裏口でやったそうです。
 すると後から、教会に電話が掛かってきました。近所の一般の人からでした。
「おたくの教会は子供を虐待しているのか」
 どうやら裏口でのムチを、たまたま目撃したようです。
 牧師が対応して、結局通報されずに済みましたが、いろいろ大変だったようです。

 その時の牧師の言い分はこうでした。
ノンクリ(未信者)には聖書的なムチの価値がわからないから
 あくまで自分たちは正しいことをしている、ということですね。
 ただその割に、裏口でのムチはその後一切禁止になりましたが。正しいなら堂々とやればいいと思うんですけどね。やはりどこかに、後ろめたさがあったのではないでしょうか。

 ☆ ☆ ☆

 体罰を法律で禁止する国もある中、まだ日本では、体罰を「躾け」の一環と考える親が少なくないようです。あるいはそうは考えていなくても、子供にイライラして思わず手を上げてしまった、という経験がある親は少なくないと思います。

 ぶっちゃけた話、また現実的な話、家庭内でどのような体罰が行われるかは、ほとんど親次第です。ニュースで報道されるような虐待死(つい先日もありましたね・・・)でもなければ、一家庭内での体罰が注目されることはありませんし、他者が関わるチャンスもありません。

 でもキリスト教会内で、信仰と結びつけた形で体罰を容認する(と言うか指示する)のは、やはり問題だろうと思います。「子供に体罰を与えるのがキリスト教信仰だ」なんて、ほとんどのクリスチャンは考えていません(そうですよね?)。聖書の中でキリストが子供たちにどのように接したかを見れば、わかると思いますが。

 結局のところ、体罰は子供に恐怖心を与え、心を傷つけるだけです。また「困ったら暴力で解決すればいい」と子供に教えるだけです。一時的には効果があるように見えるかもしれませんが、長い目で見たら損失が大きいです。

 だから「主の名によって」子供にムチを与えている方がいらしたら、まだ遅くありませんから、さっそく止めることをお勧めします。暴力以外で解決する方法を、まず親が考えてみましょう。

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