幼児期からの宗教教育は愛か虐待か

2020年8月20日木曜日

教育

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「我々は罪人である」はキリスト教の教義的には正しいのだろうけれど、幼いうちからそう教え込むと「自分はダメなんだ」というのが子どものスタンダードになってしまって、その後のアイデンティティ形成が上手くいかないケースが少なくないように思う。幼少期からの宗教教育に反対なのは、そこが大きい。

 もちろん「子どもによる」し、「教派による」し、「親による」。一概に言えない。けれど基本的に何かの宗教を信仰するかどうかは、判断がつかない幼少期に大前提として与えられる(押し付けられる)ものでなく、ある程度判断がつくようになってから自ら選ぶものであってほしい、と思う。


 ただ「これを信じないと地獄へ堕ちてしまう」と親が強烈に信じている場合、当然子どもにそれを(無理にでも)教え込む。「信じないと地獄へ堕ちてしまう」と信じているから。親は必死だ。


 しかし信仰を押し付けられた子どもは、大きくなって反発することが多い。長年の我慢の反動として。この反動は単に宗教への反発でなく、親への反発となる。「信仰を捨てる=親を捨てる」話にもなってしまう。子どもにとって犠牲の大きな選択だ。


 これは親が子どもを一個人として扱うかどうか、の問題でもある。

 言うまでもなく子どもは親の所有物でなく、人権と人格をもった1人の人間だ。親は子を保護する義務はあるけれど、所有物として扱う権利はない。


 それなのに幼少期の、まだ親に反抗できないうちから信仰の選択肢を取り上げてしまうのは、人権の侵害だとわたしは思う。介護が必要になった老齢の親を、壮年の子が「有料老人ホームに入るのが最善だから」とロクに同意を得ずに入所させる、という逆のケースを考えてみれば、その理不尽さが分かるのではないだろうか。


☆ ☆ ☆


 日本では20年ほど前、「主の教育」の名のもとにチャーチスクールが流行して、幼稚園あたりから教会でガッツリ宗教教育を施される子どもたちが現れるようになった。今や彼らの多くは成人した。その教育の成果はどんなものか。


 当時、「主の教育こそ今の時代に求められるものだ」「教育の改革だ」とチャーチスクールの関係者らは豪語した。けれど子どもの教育の結果は20年くらいしないと見えてこない。安易な発言ではないだろうか。


 もちろん公教育が安心だとは思わない。最近も「#先生死ぬかも」のハッシュタグがツイッターを賑わせたり、「高校生のツーブロック禁止」が話題になったりした。教育現場も課題山積だ。しかし、「だからチャーチスクールこそ正しい教育だ」ともならない。そこにはそこの問題がある。


 結局のところ、「この子にとって何がベストだったか」は誰にも分からない。時間を戻して別の選択肢を試すわけにも行かないから、結果論でしか言えない。


 この話でわたしが思い出すのは、当時ある教会関係者がチャーチスクールに反対して語った言葉だ。

どうか子どもたちを実験台にしないでほしい

 今もこの言葉が、わたしの胸に響いている。

 幼児期から宗教教育を施したり、嫌がる子をチャーチスクールに入れたりする親御さんには、ぜひ考えてほしいと思う。

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