エホバの証人には、教育や訓練や躾と称して子どもを鞭で叩く「教え」がある(あった)と聞く。なんて異常な! と思う人もいるかもしれない。けれどキリスト教プロテスタントの一部にも同様の「教え」を推奨する教派(教会)があったので、全く他人事ではない。実は私の教会もそうだった。アメリカの某有名「クリスチャン教育家」がビデオの中で語るには、「子は叩いて躾けなければならない」とのこと。「それは体罰などでなく、子への『愛』なのです。むしろ子を愚かさから解放するため、親は涙を呑んで叩かなければならないのです」
聖書は体罰を肯定している、という説だった。その根拠として引用されたのは、箴言13章24節。「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。」(口語訳)
そして牧師が言うには、叩いていい部位は子のお尻のみ。使っていいのはしゃもじのような平たい、ダメージが少なそうな材質と形状のもののみ。回数は10回程度。叩いた後は子に「愛している」と伝えることを忘れずに。ちゃんとアフターフォローをすれば、子には親の愛がしっかり伝わるのです、云々(叩かれた後に「愛してる」とか言われても気持ち悪いと思うのだけれど)。
真面目な親は、聖書の言葉には逆らえない。そして最も「霊的」で「分かっている」牧師の言葉にも逆らえない。だから気が進まなくても、子が粗相したら叩かざるを得ない。私の教会はちょうどベビーブームだった。親たちはこぞって、躾用のしゃもじを購入したそうな(さすがに食事用のしゃもじとの兼用はできなかった様子)。
そんなある日曜日、礼拝の最中、ある子がちょっとうるさくしてしまった(全然悪いことではないと思うのだけれど)。親はその子を教会の裏手に連れて行き、例のしゃもじで叩いた。裏手に建つマンションの住人がそれを目撃。そのまま通報された。しかし牧師は反省するでもなく、「信仰の行いは一般人には理解されないから、躾は人目に付かないところでするように」と新たな指示を出していた。あくまで「自分たちは正しい」のだろう。
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子どもへの宗教教育と虐待は紙一重 |
しかし親がどんな気持ちだろうと、どんな信仰だろうと、叩くことで子に伝わるのは恐怖と痛みでしかない。それは愛ではない。「子を思って泣きながら叩いた」と美談のように語る親もいるけれど、どこまでマスターベーションな「愛情」なのだろうか。
またこの「教え」のもう一つの問題点は、何が「子の粗相」かを親が一方的に決め付けることだ。礼拝中、静かにできないのは子の「罪」なのだろうか。教会の子どもどうしの喧嘩は罰すべき「罪」なのだろうか。あるいは発達障害に起因する(本人にも制御できない)行動は子の「罪」なのだろうか。
2020年4月、改正児童虐待防止法により、いわゆる体罰は禁止された。さすがに今は「子は叩いて躾けるべき」と主張する宗教組織はないと思う。ここに書いたことも過去の遺物になっているはずだ。しかしそういう過ちを犯してしまったことは、記憶と記録に留めておかなければならない。