聖書の記述には一切「誤り」がないのですか?

2018年6月6日水曜日

逐語無謬説について

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聖書は無誤無謬?

 キリスト教の神学的議論の1つに「聖書は無誤無謬なのか?」というのがあります。
 要は「聖書の記述に誤りはないのか?」「聖書の内容は本当に全部正しいのか?」といった話です。「聖書無謬説」「逐語無謬説」「無誤無謬説」などと表現されますね。

 新約聖書の第2テモテ‪3章16節‬に、「聖書はすべて神の霊感によって書かれたもので・・・」という記述があります。神が書いたのなら、間違いないかもしれません。でもこれはあくまで聖書の「自己言及」です。誰かが「私は嘘をついていません」と言うのを信じるかどうか、というのとあまり変わらないのですね(聖書の権威を貶めるつもりはありませんよ)。

 では聖書には、本当にあったこと「だけ」が記されているのでしょうか。創世の出来事やノアの洪水、バベルの塔、はたまたキリストの「癒し」や「奇跡」などは、全部事実なのでしょうか。

昔「あった」けど、今は「ない」?

 そもそもの話ですが、聖書の記述そのものに「誤りがない」というのは正しくないようです。

 たとえば「共観福音書」と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカによる福音書は、共通した内容を沢山記していますが、ディテールにおいて相違点が見られます。細かく書きませんが、出来事の時間帯とか、人数とかの記述が違っています。

 だからその時点で、「逐語」無謬説というのは成り立たないかと思います。

 ではもう一歩踏み込んで、聖書に記されている壮大な奇跡の数々について、考えてみましょう。たとえばキリストが水を上を歩いたとか、死人が生き返ったとか、叱ったら嵐が止んだとか、盲人が見えるようになったとか、マリアが処女受胎したとか。etc...

 それらの奇跡は、本当にあったのか?
 ある、と考えた方がロマンがあって良いように思えます。クリスチャンであれば「ある」と言う方が敬虔なのかもしれません。

 でも「ある」とした場合、1つ重大な問題にぶつかります。
 聖書の時代に「あった」のに、今現在は「ない」という問題です。

 もし初代教会の時代に「癒し」や「奇跡」がバンバン起こっていたのなら、今の時代にもバンバン起こっているはずです。キリストの教えに従っているのは、今も昔も同じなのですから。

 でも現代に至るまで、大々的な、一般に認められるような、誰も否定し得ないような、確固とした証拠が残っているような「癒し」も「奇跡」も、起こっていません。一部の原理主義者は「今も奇跡は起こっている」と主張しますが、第三者が検証可能はケースは、何一つありません。
 であるなら、初代教会の時代にも本当はそういうことは起こっていなかった、と考える方が合理的なのではないでしょうか。

 つまり、聖書の記述には、ある程度の「脚色」がなされているのではないか、ということです。決して悪意ある「嘘」などではなくて。

 ただ誤解のないように書いておきますと、それらが脚色であったとしても、キリスト教の本質的な部分は、またその価値は、何ら変わることがありません。むしろ「癒し」や「奇跡」を排除してしまった方が、シンプルにキリストの教えに注目が行くのでは、とさえ思います。

 聖書を信じることと、聖書が無誤無謬であると信じることは、違います。

本質と、本質でないもの

 では何故「癒し」や「奇跡」が起こったように脚色したかと言うと、キリストを「神格化」したかったからではないでしょうか。

 たとえばの話ですが、道端にうち捨てられて、弱っている病人に、キリストが手を差し伸べたとします。身体を洗ってあげて、清潔なベッドに寝かせてあげて、水を飲ませてあげたとします。たぶんそれだけで病人は、ずいぶん元気になったでしょう。そのままなら死んでいたものが、そういうふうに親切にされて生き延びたとしたら、それは「奇跡」みたいなものです。

 もちろんそれは「瞬間的な癒し」じゃありません。本来的な意味の「奇跡」でもありません。でも誰にも顧みられなかった人たちが、キリストの憐れみを受けて、わずかでも希望を持つことができたとしたら、それは「癒し」であり「奇跡」である、と言えるのではないでしょうか。

 そういうキリストの愛深い行為に尾ヒレが付いて、いつしか壮大な「癒しと奇跡」の物語になったとしても、不思議ではないと私は思います。だからそれは悪意ある「嘘」でなく、キリストを神格化するための「脚色」だった、と私は思うわけです。

 でも前述の通り、聖書に登場する「癒し」や「奇跡」が全部脚色だったとしても、キリスト教の価値は全然変わりません。何故ならキリスト教の本質は「キリストの教え」であり、それは一にも二にも「隣人愛」だからです。そして隣人愛を行うには、本来的には「癒し」も「奇跡」も必要ないからです。

 その意味では、逐語無謬説にこだわるのもまた、本質からズレていると言えます。
「聖書は一字一句正しいのか?」という問いは、隣人愛を行う上では、何の役にも立ちませんよね。
 また「今も癒しや奇跡が起こるはずだ」と主張し、「癒し」や「奇跡」を待ち続け、自己満足的な「異言」や「預言」で盛り上がり、「霊的」を標榜したところで、何の意味もありません。むしろそこまで行ってしまうと、逐語無謬説ももはや害毒でしかありません。

 というわけで、逐語無謬説にこだわらない方がいいですよ、というお話でした。

※6月3日のメールマガジンにて、さらに詳しく書いています。興味のある方はどうぞ。

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