聖書は無誤無謬?
キリスト教の神学的議論の1つに「聖書は無誤無謬なのか?」というのがあります。
要は「聖書の記述に誤りはないのか?」「聖書の内容は本当に全部正しいのか?」といった話です。「聖書無謬説」「逐語無謬説」「無誤無謬説」などと表現されますね。
新約聖書の第2テモテ3章16節に、「聖書はすべて神の霊感によって書かれたもので・・・」という記述があります。神が書いたのなら、間違いないかもしれません。でもこれはあくまで聖書の「自己言及」です。誰かが「私は嘘をついていません」と言うのを信じるかどうか、というのとあまり変わらないのですね(聖書の権威を貶めるつもりはありませんよ)。
では聖書には、本当にあったこと「だけ」が記されているのでしょうか。創世の出来事やノアの洪水、バベルの塔、はたまたキリストの「癒し」や「奇跡」などは、全部事実なのでしょうか。
昔「あった」けど、今は「ない」?
そもそもの話ですが、聖書の記述そのものに「誤りがない」というのは正しくないようです。
たとえば「共観福音書」と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカによる福音書は、共通した内容を沢山記していますが、ディテールにおいて相違点が見られます。細かく書きませんが、出来事の時間帯とか、人数とかの記述が違っています。
だからその時点で、「逐語」無謬説というのは成り立たないかと思います。
ではもう一歩踏み込んで、聖書に記されている壮大な奇跡の数々について、考えてみましょう。たとえばキリストが水を上を歩いたとか、死人が生き返ったとか、叱ったら嵐が止んだとか、盲人が見えるようになったとか、マリアが処女受胎したとか。etc...
それらの奇跡は、本当にあったのか?
ある、と考えた方がロマンがあって良いように思えます。クリスチャンであれば「ある」と言う方が敬虔なのかもしれません。
でも「ある」とした場合、1つ重大な問題にぶつかります。
聖書の時代に「あった」のに、今現在は「ない」という問題です。
もし初代教会の時代に「癒し」や「奇跡」がバンバン起こっていたのなら、今の時代にもバンバン起こっているはずです。キリストの教えに従っているのは、今も昔も同じなのですから。
でも現代に至るまで、大々的な、一般に認められるような、誰も否定し得ないような、確固とした証拠が残っているような「癒し」も「奇跡」も、起こっていません。一部の原理主義者は「今も奇跡は起こっている」と主張しますが、第三者が検証可能はケースは、何一つありません。
であるなら、初代教会の時代にも本当はそういうことは起こっていなかった、と考える方が合理的なのではないでしょうか。
つまり、聖書の記述には、ある程度の「脚色」がなされているのではないか、ということです。決して悪意ある「嘘」などではなくて。
ただ誤解のないように書いておきますと、それらが脚色であったとしても、キリスト教の本質的な部分は、またその価値は、何ら変わることがありません。むしろ「癒し」や「奇跡」を排除してしまった方が、シンプルにキリストの教えに注目が行くのでは、とさえ思います。
聖書を信じることと、聖書が無誤無謬であると信じることは、違います。
本質と、本質でないもの
では何故「癒し」や「奇跡」が起こったように脚色したかと言うと、キリストを「神格化」したかったからではないでしょうか。
たとえばの話ですが、道端にうち捨てられて、弱っている病人に、キリストが手を差し伸べたとします。身体を洗ってあげて、清潔なベッドに寝かせてあげて、水を飲ませてあげたとします。たぶんそれだけで病人は、ずいぶん元気になったでしょう。そのままなら死んでいたものが、そういうふうに親切にされて生き延びたとしたら、それは「奇跡」みたいなものです。
もちろんそれは「瞬間的な癒し」じゃありません。本来的な意味の「奇跡」でもありません。でも誰にも顧みられなかった人たちが、キリストの憐れみを受けて、わずかでも希望を持つことができたとしたら、それは「癒し」であり「奇跡」である、と言えるのではないでしょうか。
そういうキリストの愛深い行為に尾ヒレが付いて、いつしか壮大な「癒しと奇跡」の物語になったとしても、不思議ではないと私は思います。だからそれは悪意ある「嘘」でなく、キリストを神格化するための「脚色」だった、と私は思うわけです。
でも前述の通り、聖書に登場する「癒し」や「奇跡」が全部脚色だったとしても、キリスト教の価値は全然変わりません。何故ならキリスト教の本質は「キリストの教え」であり、それは一にも二にも「隣人愛」だからです。そして隣人愛を行うには、本来的には「癒し」も「奇跡」も必要ないからです。
その意味では、逐語無謬説にこだわるのもまた、本質からズレていると言えます。
「聖書は一字一句正しいのか?」という問いは、隣人愛を行う上では、何の役にも立ちませんよね。
また「今も癒しや奇跡が起こるはずだ」と主張し、「癒し」や「奇跡」を待ち続け、自己満足的な「異言」や「預言」で盛り上がり、「霊的」を標榜したところで、何の意味もありません。むしろそこまで行ってしまうと、逐語無謬説ももはや害毒でしかありません。
というわけで、逐語無謬説にこだわらない方がいいですよ、というお話でした。
(※6月3日のメールマガジンにて、さらに詳しく書いています。興味のある方はどうぞ。)
「人はなぜ生きるか」井上洋治、講談社。この中で井上神父が聖書をどのように読むかということを書いています。旧約聖書はユダヤ教の聖典、新約聖書はキリスト教の聖典。旧約は新約理解の参考書。新約がメインで、旧約はおまけ。
返信削除おまけの次にメインがあるのではない。旧約は前編で、新約は後編などという読み方は間違いである、大切なのは新約であると言っておられます。
新約で何を学ぶのか、福音書でイエスの教えを学ぶこと、書簡類でイエスの弟子(パウロなど)たちの考えを学ぶことが大切だと言われています。
奇跡物語などもイエスの教え(一言で言えばアガペ、見返りなしの愛情、慈愛ですね)を学ぶ方便だととらえることが大切だと言っておられます。
旧約のイザヤ書でイエス誕生の予言がなされているといってありがたがる人もいるけれど、こじつけだという認識が必要だとも言っておられます。
さすが、遠藤周作の親友だった方だけに、まともなことを言っていられます。
なるほど。たしかに旧約を前編、新約を後編というふうに、「同列」に扱う傾向があるかもしれません。キリスト教のベースはあくまで新約にあるのに、いつのまにか旧約にその比重がずれている、なんてこともあると思います。
削除とくに「ダビデの幕屋の礼拝」に熱中している人たちは、旧約が命になってしまっていますね。もっとも自分たちにとって都合のいい部分を旧約から引っ張っているだけなのですが。
隣人愛かあ。私が行っていた教会では、それは二の次な感じだったな。
返信削除「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 また あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
だからまず神を愛するんだ、神を愛すればテモテ第2 3章16節も信じられるだろう?何よりも大事なのはここ!と逐語無謬説の根拠だというのを聞いたことあります。
神の義が大事なので、時に人道に反することも支持しなきゃならないこともあるとか…(例えば同性婚やLGBTの権利に反対するなど)
もう、これじゃ二の次どころか隣人愛の逆を行く教えだよね。
「神のためには常識を越えなければならない時もある」などとカッコつけたことを言って、税金を払わなかったり、週報の印刷代を業者に法外に値引きさせたりする牧師がいますね。結局神を都合よく利用しているだけだと思いますが・・・。
削除神を愛するとはどういうことかという回答が、自分自身を愛しなさい、そして隣人を愛しなさい、愛するという中味は、アガペの愛、つまり見返りを求めないこと、見返りを求める愛はフィレオ(友愛、博愛・・)エロス(性愛、異性愛、同性愛・・)性愛でも見返りを求めなければ、アガペの愛になりますが・・
削除ボランティアを考えても、見返りを求めなければ、アガペの行為だが、見返りを求めたら、フィレオの行為ということでしょうか。
他者への行為には、見返りを求める心が幾分かは含まれている気がしますね。だから完全なるアガペは存在しないのではないかな、と私は思います。
削除聖書に誤りがないと教えられ、その通りだと思っていました。でも結構矛盾が多いし、全て実際に起こったと考えるのは無理があると感じます。大事なのは何を伝えたいのか、という事だと思うのですが…。なぜそこまでこだわるのか教会にいるときも、出てからも理解できませんでした。
返信削除ありがとうございます。
削除記事にも書きましたが、本質を見失い、聖書の字義にこだわる教会があるのは残念なことだと思いますね。
聖書に誤りがあるかどうかということに関しては、カトリック的に考えれば、聖書と聖伝は同値だということにいきつくでしょう。つまりは、聖伝とは、これまでの公会議、例えば第2バチカン公会議などで決めたことは、聖書と同値だということでしょう。
返信削除カトリックだとカトリックのカテキズムによって理解する、これが基本でしょう。ルター派だとルター教理問答書、カルバン派だとカルバンのキリスト教綱要に基づいて聖書を理解するということになるでしょう。
聖書は神の言葉であるというのは、不明瞭な表現であり、聖書の言葉は旧約も新約もすべて人が書き記したものであるは自明ですね。
1955年にローマ教皇庁聖書委員会は、信仰と道徳に関わるものを除いては、カトリック信者は「聖書をどのように読もうと全く自由である」という声明を出していますね。
例えば、創世記のアダムとエバの記事を嘘だと考えるのも自由ですよというわけですね。嘘だと考えて、人殺しをしても良いとか考えたり、イエスへの信仰を捨てようと思ってはいけませんよ、というわけですね。