知り合いの子どもがチャーチスクールに教師として就職すると聞いて、暗い気持ちになった。
チャーチスクールはかつて「主の教育」と呼ばれ、問題の多い公教育に取って代わる(クリスチャン家庭の)希望あふれる選択肢として注目された。祈りと礼拝で1日を始め、聖書を学び、魂と霊に平安を得た子どもたちは一般科目にも力を発揮する、という謳い文句。「いじめ」はないし「非行」の心配もない、と聞いた保護者たちの安心はいかほどだったか。
しかし蓋を開ければ「クリスチャンらしさ」に追い立てられ、逃げ場をなくした子どもたちの声にならない叫びがそこにあった。子どもたちの中に(見えづらい)序列や階級が生まれ、密かに優越感に浸る子どもたちがいる一方、(やはり見えづらい)排除や抑圧に苦しめられ、けれど笑顔を見せるしかない子どもたちがいた。
チャーチスクールが無認可であることを、子どもも保護者も(少なくとも入学当初は)ほとんど問題視しない。けれど子どもたちの進路が著しく狭められるのは事実だ。それを気にしないで済むのは牧師や宣教師になりたい子どもや、キリスト教関係の仕事(といってもごく限られている)に就きたい子どもくらい。そうでない子どもが中高生になり、進路を真剣に考える時期になって、こんなはずじゃなかったと驚くことが少なくない。学力レベルが全く足りていないことに気づくからだ(チャーチスクールの教師のほとんどが無資格であることや、礼拝や聖書で学習時間が圧迫されていることを忘れてはならない)。
教師と子どもの距離が近すぎるのも考えものだと思う。境界線を踏み越えた馴れ合いや過干渉が健全な成長に繋がることはほとんどない。高校までチャーチスクールで過ごした子が、一般の大学に入って早々に気付いたのは、「全く特別な存在でない自分」だったという。チャーチスクールでは、自分を何か特別な存在だと(根拠なく)思い込んでしまう子が少なくない(そしてそれは主に子どものせいでなく、教師や保護者との距離が近すぎるせいだ)。
もちろん公教育だって問題は多い。不登校児は増え続けているし、「いじめ(という名の暴行事件)」はいつもどこかで起きている。教師の労働環境も改善が必要だ。子どもを送る保護者は心配が尽きないだろう。しかしだからといって、チャーチスクールがベターな選択肢になるわけではない。そこにはまた別の問題、別の心配事があるのだから。
私はチャーチスクールで教師として働いたことがある。自分なりにベストを尽くしたし、子どもたちの最善を願っていた。けれど後悔は大きい。教師として力量不足だったのに加え、チャーチスクールの負の側面にあまりに無自覚だったからだ。やり直せるなら教師職は辞退したい。
だから知り合いの子どもがチャーチスクールに就職すると聞いた時、暗い気持ちになったのだ。もちろんそのスクールは違う結果をもたらすかもしれないし、私にとやかく言う資格もない。その子が後悔しないことを願うしかない。
そんなことを考えて鬱屈としていたある日、その子が別の就職先に決めたという連絡を受けた。ひとまず安堵したのは言うまでもない。けれどチャーチスクールという構造そのものが残っており、今もどこかで苦悩しているクリスチャン子弟がいるかと思うと、手放しに喜べないのも事実だ。