「歪んだ信仰」が「過激な行為」へ。宗教が反社会性を帯びる瞬間。

2019年1月21日月曜日

「悪霊」に関する問題 カルト問題

t f B! P L
 ある教会で、信徒のAさんが牧師からカウンセリングを受けました。イロイロ悩みがあったのです。
 ある日のカウンセリングで、こんなことを言われました。
「悪魔との契約が残っているのだろう。完全に断ち切らないと駄目だ」


 悩み苦しみは悪魔のせいだから、悪魔との関係を全部断ち切らないと改善しない、というわけです。
 Aさんは悪魔と関係した覚えはなかったのですが、牧師に言わせれば、人はいろいろなところで無意識的に悪魔と関係してしまうそうです。たとえば家に仏壇があるだけでその悪影響を受けるとか、テレビや雑誌の「占いコーナー」を見るだけで悪魔に心を開いたことになるとか、タロットカードや「こっくりさん」で遊ぶだけで悪魔と「契約」したことになるとか。

 というわけで牧師に言われるまま、「断ち切りの祈り」をすることに。
 Aさんは思い出せる限りの「悪魔との契約」を紙に書いて、教会に持って行きました。こっくりさん、タロットカード、各種占い、誰かの葬式で上げた焼香、子供のころに聞いた怪談話、などなど。

 その紙を持って、牧師と共に教会の裏手に行きました。「悔い改め」の祈りをして、「断ち切りの祈り」をして、ライターでその紙に火を付けました。そして完全に燃え尽きるのを、二人で見届けました。全部灰になったところで、牧師が一言。
「悪魔との契約は、完全に破棄されました!」 

 それで「悪魔との契約」は無効となって、Aさんはもっと生きやすくなるはずでした。
 でも結局、何一つ変わりません。悩みは依然として解決されず、Aさんを苦しめました。それで牧師にもう一度相談したら、こんな答えが。
「思い出せなくなっている悪魔との契約がまだあるのかもしれない。思い出したらまた祈ってあげよう。思い出させていただけるように、聖霊様に祈りなさい」

 全てを思い出して一つ一つ断ち切らないと駄目だとしたら、おそらく誰も解放などされないと思います。皆さんは過去に犯してしまった大小様々な罪を、全部思い出すことができるでしょうか?
 
「悪魔との契約」を紙に書き出して燃やして焼き尽くす、という行為の特別さは、心踊るものかもしれません。でも結局は、見た目重視の過激なパフォーマンスなのです。

 これと同じような文脈に、「仏壇を捨てる」とか「ゲーム機を壊す」とか「ロックのCDを割って捨てる」とか「ポルノ雑誌を燃やす」などの過激な行為があります。霊的にだけでなく、物理的にも「断ち切る」という理屈です。

 狂信的な信仰は、このように、次第に「行為」に現れます。

 たとえば「霊の戦い」は、初めは「大声で勝利を宣言する」だけです。それも教会の中でしますから、部外者にはわかりません。しかしエスカレートすると、近所の神社仏閣に出て行って、油を撒くようになります。さらに進むと伊勢神宮などの有名寺社を「攻撃」するようになります。その先がどうなるか想像できませんが(したくもありませんが)、とにかくどんどん「反社会的な行為」に発展していきます。

「断ち切りの祈り」も同じです。初めは単に祈るだけですが、そのうち物を燃やしたり、壊したりするようになります。教会内に異議を唱える人はいませんから、その行為は過激になる一方です。

 それは、宗教が反社会性を帯びる瞬間、と言えるかもしれません。

「時には社会のルールを破ってでも従わなければならない御心がある」
「イエス様は過激な革命家だった。私たちもそうでなければならない」

 そんなもっともらしい言説をもって、自らの反社会性を正当化する宗教があります。残念ながらキリスト教にもそういう側面はあります。どの教派も教会も、カルト化の心配はないとは言えません。
 逆に言えば反社会性の有無が、その教会のカルト化を測る一つの指標となるかもしれません。その意味では「霊の戦い」や「断ち切りの祈り」を採用している教会は、いずれも要注意だと私は思います。

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 本記事はメルマガ第54号(テーマ:断ち切りの祈り)から抜粋・編集したものです。
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