2016年4月28日木曜日

【雑記】「素人」解禁ですが・「教会の病」紹介・あるハシゴクリスチャン

 久しぶりに、記事の詰め合わせ。

■「素人」解禁ですが

 熊本地震の被災地で、ボランティアの登録と派遣が始まった。多くの老若男女が集まっている様子が先日報道されていた。さて、

「素人は引っ込んでろ」
「今は祈りながら様子をみて、落ち着いてから何か考えるべきです」

 と言っていた方々、出番ですが?
 当然祈る「だけ」はもう終わりですよね?
 今度は自分たちの活動の様子をアップしてくれますよね?

■「教会の病」紹介

 村上密先生の最近のブログ記事「教会の病」はぜひ読んでほしい。短い記事だけれど、よくポイントを掴んでいる。
 聖書でキリストが、当時のユダヤ教徒をこう評している。「神の言葉より、人の言い伝えに聞き従っている」
 それで当時のユダヤ教徒の奴らはわかってない、神の言葉より人の言い伝えを優先するなんて愚かだ、と現代のクリスチャンらは思う。けれどそういう自分たちが、単なる「言い伝え」に目を奪われている可能性について考えていない。
 たとえば「異言」について、聖書は何と言っているか? 初めは赤ちゃんみたいな喃語で、言っているうちに開発されていく、なんて書いてある? はじめは人の真似をすればいい、なんて書いてある? それこそ人の「言い伝え」なんだけど?

■あるハシゴクリスチャン

 ある女性クリスチャンがいた。所属教会はあったと思うけど、毎週、方々の教会の礼拝や集会に顔を出していた。いわゆる「ハシゴクリスチャン」である。ある時私の教会に来て、「今日は、ここで思いっきり神様を賛美するよう、導かれました~」と意気揚々と最前列に座った。そして礼拝開始早々、彼女は「ハレルヤ~!」とか「アーメーン!」とか、叫んで踊っての大盛り上がり。さほど若くなかったと思うけど、髪を振り乱しの、汗を飛ばしの、スリッパを飛ばしの、ちょっと「目立つ」姿だった。もともと私の教会は賛美が「元気」な方だったけど、彼女のハイテンション振りが群を抜いていたのは言うまでもない。

 という訳で「思いっきり神様を賛美した」彼女だったけど、それから数か月後、再び姿を現した。けれど今回は、打って変わってどんよりムード。まるで生気がなく、グッタリした様子で、最後列に座った。「神様に・・・神様に・・・取り扱われました!」という話し声がなんとなく聞こえてきた。そして礼拝が始まると、彼女は賛美の初めから終わりまで、ずっと泣きっぱなしである。後半の方で静かな曲になると、その嗚咽や鼻をすする音がよく聞こえてきた。みんな気になって仕方なかったと思うけど、たぶん誰も何も言わなかった。

 さてそれからまた数か月後、再び彼女がやって来た。今回は特にハイテンションでもなくローテンションでもない。そして礼拝前、賛美奉仕者が集まっているところにツカツカとやってきた。「今日はこの礼拝の為、賛美奉仕の皆さんに按手して祈るよう、神様に導かれています。だから順番に祈ってあげます」そして有無を言わせず、片っ端から、頭に手を置いて祈り始めた。「異言」で。アラララララララ・・・とかいう大声で。さすがに聞きつけた牧師がやってきて、ちょっと揉めたのだけど、彼女の堂々としたこと。「こうするように導かれたのです。御心に反することはできません!」
 まあここで話すのもアレだから・・・という訳で牧師室に連れて行かれて、その後どうなったかは知らない。

 彼女がそれ以降来ることはなかった(当たり前か)。けれど大きな会場での集会とか、渋谷の超教派的な集まりとかで、彼女を見かけることがあった。 相変わらず、浮き沈みの激しい様子だった。けれどいつの頃からか、彼女を見なくなった。そして今に至っている。どこか地方や、あるいは海外にでも行ったのかもしれない(海外での「弟子訓練」の様子をよく自慢げに話していた)。知りたくもないけれど。

  べつにハシゴが悪いとは思わない。むしろ見識が広がって良いとさえ思っている。けれど賛美は気分で捧げるものじゃない。「今日はどこそこで礼拝しなさい」と神様が指定するはずもない。自分が「按手」しないとその日の礼拝がどうにかなってしまう、ということもない。ちなみに無意味な単音は「異言」じゃありません(苦笑)。

 という訳で、決して悪い人じゃないと思うけど、「痛い系クリスチャン」に見られるイロイロな間違い・勘違いの集大成みたいな人だったなあと、ふと思い出してみた。

2016年4月22日金曜日

クリスチャンの「祈り」と「行動」について・その2(熊本地震に際して)

※熊本県、大分県、および周辺地域で発生した地震について、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 地震発生からすでに1週間以上が経過した。まだ現地では余震が続き、多くの方が避難所や車中で、不自由な生活を余儀なくされている。支援物資が次々送り込まれていると聞くけれど、まだまだ十分とは言えないようだ。しかし現地でついにボランティアの募集が始まった。支援の手は徐々に広がっているようだ。

 前回の記事で紹介した水俣の知り合い(牧師)も、連日物資を現地に運んでいる。自分のことでないから大いに自慢するけれど、彼は教会の信徒や周辺の住民から託された物資を、片道5時間かけて(高速道路を使えないので)、この1週間ほぼ毎日運んでいる。現地の教会に物資を一時保管させてもらい、地域の住民に配っているという。当然ながらクリスチャンとかノンクリスチャンとか関係なく。今は伝道どころでなく、ただ現地の必要を満たしたい一心で働いている。

 それを知る近所の人(未信者)が、牧師の車が小さいからということで、大きなバンを貸してくれたという。また物資の輸送をボランティアで手伝ってくれる人(やっぱり未信者)もいて、助けられているそうだ。
 被害からの一日も早い回復を願うばかりだ。

ところで・・・

 ところでこういう大規模災害で必ずと言っていいほど出現するのが、「神の罰だ」論者と、「終末だ」論者。
 幸福の科学の教祖が今回の地震を受けてトンデモなことを言っているようだけれど、残念ながらキリスト教界にも同じような輩がいる。いよいよ終末が近づいたとか、携挙の時が近いとか、これは神からの警告だとか、だから悔い改めよとか、言いたい放題。それで踊らされる人々も少なからずいるようで嘆かわしい。

 でもたぶん、彼らはちゃんと聖書を読んでいないと思う。聖書は自分たちにとって唯一絶対の教典であるはずなのに。

 たとえば終末の前兆として、「あちこちにききんが起こり、地震が起こる」と確かに書いてあるけれど、文脈を無視してはいけない。それらは「生みの苦しみの初め」とも書いてある。つまり、地震イコール終末ではない。
 それに飢饉も地震も人類の歴史とともにあるのだから、どの地震をもって「終末の前兆」とするかは、誰にも言えない。
 また終末の前兆の一つに「戦争」が挙げられているけれど、現代は人類史上でみれば平和な方である。

 つまり、今が終末でないと言うことはできないけれど、同じ強さの口調で、終末だと言うこともできない。

 それに聖書は、終末のタイミングを予測しなさいなどと一言も言っていない。聖書の終末に対する忠告はこれだ。
「惑わされないようにしなさい」

 だから私たちは注意深くなければならないと思う。○○が起こったから××だ、となんでも簡単に関連付けるべきでない。つまり大地震だから終末だ、イスラエルが攻撃されたから終末だ、大事故で大勢死んだのは神の罰だ、とか。
 また現実のいろいろな出来事に「霊的意味」を付けたがる人たちがいるけれど、そんなの何とでも言える訳で、手相占いとか星占いとかと大差ない。だいいち今回の熊本地震で言えば、たとえすごい「霊的意味」がわかったところで、それで空から支援物資が降ってくる訳ではない。もし空から降ってくるとしたら、それは自衛隊や在日米軍や高須ヘリが頑張っているからだ。

 またそこまで電波な状態でなくても、「祈りに勝るものはない」みたいな主張を繰り返すだけで、1円たりとも自分の懐を痛めない輩もいる。べつに寄付や義援金を強要する気はないし、祈りを否定する気もない。けれど「祈ります」と言って被災地に心があることを表明するのなら、現実に起こっている事柄をちゃんと見るべきだと思う。そして想像力を働かせてみるべきだ。そうすれば、被災地では水や食料は「祈り」に勝り、清潔な衣服やナプキンも「祈り」に勝り、安全に休める場所も「祈り」に勝る、ということに気付くだろう。

 もちろん、祈っても無駄だとか、意味がないとか、そういう話をしているのではない。祈りは祈りで大切だと私も信じている。ただ優先順位の話であって、今被災地に必要なのは祈りよりも現物なんだよ、というだけの話。

 また、「祈れば必ず神様が働いて下さる」と信じるのは良いことかもしれないけれど、本当に信じてる? 今まで自分自身のことで、祈ればどれも必ず実現しましたか?
 また「被災地に平安を」って言うけど、どういう種類の「平安」なの? 何をもって「平安」とするの? 本当に被災地に対して心があるなら、そういうことを具体的に想像しているはずだけど?

 ちなみに私が思う「平安」を感じる瞬間は、たとえば着の身着のままで避難した先で、無償で飲料水や食料をもらえたり、毛布をもらえたり、大丈夫ですかと優しく声をかけられたりする時だ。遠くで「祈ってます」と言われる時ではない。


お知らせ

 最後に、本文中で触れた、水俣の私の知り合い(被災地支援をしている牧師)について少し。

 水俣福音キリスト教会
 主任牧師 神園悟
 〒867-0035 熊本県水俣市月浦248-12
 TEL 0966-63-5883

■同教会の支援活動の様子
  
↑沢山積まれた物資

↑地割れした道路

 
↑避難所の様子
 
↑教会にて配給

↑小学校に物資を届ける

■同教会の、熊本地震被害における義援金窓口口座
 ゆうちょ銀行
 支店番号:718
 口座番号:3211407
 口座名義:センド ラブ クマモト
(記号17170 番号32114071

 ※義援金口座は熊本県も開設していますし、熊本市の農協とか赤十字とか他にもあります。クリスチャンの人に頑張ってほしい、と特別願われる場合は、こちらもアリかと思います。

2016年4月17日日曜日

クリスチャンの「祈り」と「行動」について(熊本地震に際して)

※熊本県および周辺地域で発生した地震について、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 熊本県にはクリスチャン関係の知り合いが複数いる。地震発生翌日の4月15日の朝、私は電話連絡した(発生当時は現地の回線確保を考えてしなかった)。水俣の知り合いは無事だった。揺れはあったけれど、被害はなかったとのこと。それより熊本市内のライフラインが停止しており、飲食に事欠く状況になっていて(15日時点)、さっそく熊本市内の教会に物資を届ける手配をしている、とのことだった。

 状況が許されれば被災地に行きたいけれど、今は行ける人たちを支援することが肝要かと思う。また仮に自分が現地に行けるとしても、本当に行くべきかどうかは検討が必要だと思う。東日本大震災(2011年)の時に実感したことだけれど、現地に行くことよりも、そこで必要とされることが自分にできるか、の方が肝心だ。1人で何も持たず何の繋がりもない状態で行っても、結局邪魔しに行くことになりかねない。行くならちゃんとした情報を得て、どこに何をしに行くのか、計画してから行くべきだと思う。

 引き続き、自分にできることをしたいと思う。

 ところで早速だけれど、「祈りましょう」というクリスチャンの発言をあちこちで目にする。「何もできないけれど、祈ることはできる」という訳で、「被災地に平安があるように」みたいな「祈りのリスト」をいくつか挙げている。まあ善意によるものだと思うけれど、私にはどうも違和感がある。なんで祈るだけなの? という違和感だ。

 これが遠い海外で起きた出来事で、現地の言葉がわからず、連絡方法も送金方法も確立されておらず、文字通り「何もできない」状態なら、「祈るしかない」となるのもわかる。けれど熊本県は日本国内であって、現地にも周辺にも教会は沢山あるし、日本語も通じるし、電話も送金も荷物の配送も可能なのだ(被災地が無理だとしてもその周辺には)。
 できること、沢山あるけど? なんで祈るだけなの?
 というのが私の率直な感想だ。

 もちろん何かをしろって話ではない。同胞なんだから助けなさいって話ではない。そうでなく、「祈りましょう」と言うほどに「心が動いている」なら、当然祈る以外にも何かするはずでしょ? と思うだけだ。それが見ていると、祈ることだけで満足している。

 何のための祈りなの? それ?
 ここはとりあえずクリスチャンらしく祈っておこう、みたいな?

 あえて厳しいことを書くと、そんな祈りなら意味はない。だったら祈らない方がいい。祈る時間を使ってネットで周辺の教会を探し、電話一本でも入れる方がまだ何かの役に立つと思う。

 たぶんこれは、自分自身が被災してみればよくわかる。突然の被災で、突然の避難生活が始まり、突然プライバシーを失い、飲食に事欠き、寒く、不安で、眠れない夜を過ごす。情報はほとんど入ってこない。いろいろな人がいろいろなことを言う。配給された水や食料をもらいに行く。トイレは仮設に列を作る。洗濯も入浴もできない。仕事やお金や今後の生活がどうなるのかわからない。そんな状態が数日から数週間続く。でも徐々に生活が立て直されていき、ようやく一息つく。だいぶ経ってから、遠方の知り合い(クリスチャン)とたまたま話す機会があり、こう言われる。「あのときは祈ってましたよ~」
 その時になって気付くだろう。こいつは自分の「隣人」ではないと。

 「良きサマリヤ人」の話はクリスチャンなら誰でも知っているだろう。強盗に襲われた旅人が行き倒れていて、祭司とレビ人は見過ごして行ってしまった。けれど当時蔑まれていたサマリヤ人だけが彼を助けて介抱した。旅人の隣人は誰? サマリヤ人でしょう、って話。
 祭司とレビ人が何を考えていたかは書かれていないけれど、「きっと誰かが助けるだろう」とか、「とりあえず祈っておこう」とか、考えたんだと思う。 サマリヤ人だけが旅人をかわいそうに思い、「何かしないと」と思った。それで行動した。

 この話を読むクリスチャンはだいたいこの祭司やレビ人を「ダメな奴」と思うし、それは間違っていないけれど、一方で自分自身がどうなのかってことに目を向けない。そして今回のような震災を見て「とりあえず祈っておこう」と言う。でもそれ、祭司やレビ人と同じなんだけど?

  もちろんその「祈りましょう」は基本的に善意なんだろうし、良かれと思ってのことだとは思う。そこは否定しない。でも私たちは自分の信仰に従って行動すべきだし、信仰は行いに現れる。心に信じることが信仰であって必ずしも行動に繋がらないのも事実だけれど、この場合は行動するに値すると私は思う。

 だからと言って現地に行けとか、多額の献金をしろとか、飲料水500リットル以上送れとか、そういう極端な話をしているのではない。自分にできること、どんな些細なことでもいいからできることを考えてみるのが、クリスチャンの良心だと私は信じている。という話。

 今日は方々の教会が日曜礼拝を行うだろうし、きっと震災について祈ると思うけれど、ぜひ、自分たちに何ができるか考えてほしいし、どんなことでもいいから実行してほしいと思う。電話一本だけでも、もらった方の気持ちは全然変わる。これは実体験だからはっきり言えるけれど、電話一本でも何かできるのである(だからと言って電話しろって話ではない。たとえば電話一本だけでも有効だよって話)。

2016年4月13日水曜日

クリスチャンの義務と義務でないものの、曖昧になっているライン

 時々見かける、クリスチャンの方々のこんな発言。

 「今日こそ礼拝に行こうと思っていたけど、○○で行けなかった」
 「愛をもって接しようと思うんだけど、またできなかった」
 「毎日祈ろうと思うんだけど、どうしても続かない」

 なんて真面目な方々なんだろうと思う。
 たぶん「クリスチャンとしてこうあるべき」みたいな理想像があるのだと思う。たとえばちゃんと毎週礼拝して、毎日聖書を読っで、祈って、「神との時間」を過ごて、立派なクリスチャンとして振る舞いたい、みたいな感じの。でも何かの事情で思うように実行できなくて、自分を責めたり、葛藤したりしている。牧師に相談したり、いろいろんな信仰書を読んだり、いろいろな集会でいろいろな講師の話を聞いたりして、その葛藤をなんとか解決しようとしている。その過程でいろいろな方法論に触れる。「癒しの宣言」とか「和解の務め」とか、「霊の戦い」とか「聖霊様おはようございます」と毎朝挨拶するとか。それらが奏功した話はあまり聞かないけれど(べつに否定している訳ではない)。

 要は、「こうあるべき」と思っていることが「できない」という葛藤。

 ちょっと辛辣な言い方をすると、「できない」のは「したくないから」なんだと思う。学生が「勉強しなきゃ」と思うけど結局しない、その理由を考えてみればわかる。勉強が好きな人はそもそも「勉強しなきゃ」とは思わないし、仕事が好きな人は「仕事に行かなきゃ」と葛藤しない。

 あ、かと言って勉強好きであれ、とか仕事好きであれ、って話ではない。できないことを責めているのでもない。ただちょっと根本的なことを考えてみてほしいだけ。

  たとえば「聖書を1日何章読まなきゃ」と思っていても、基本的に興味がなければ読めない。「祈らなきゃ」と思っていても、それなりに強い動機がない祈れない。祈り続けられない。たとえそれが「聖なる」ことであろうとも。
 たとえばレビ記を毎日3章ずつ読みなさいとか言われたら大変だ。はじめはいいかもしれないけど、途中から同じような記述の繰り返しになるから、読んでも読まなくても同じじゃね? って気になってくる。なかなかモチベーションを維持できない。

 でもそれは人間の根本的な性質であって、クリスチャンになったから変わるものではない。
 やりたいこと、あるいはどうしても避けられないこと(生活のための仕事など)でないと、人間はその行為を続けられない。

 たとえば運動不足のサラリーマンがスポーツジムに通い始める。はじめはいろいろ新鮮だから続く。でも次第に足が遠のいていく。っていうのはよく聞く話。続かない理由は何か。意思の弱さか。人間としてダメなのか。いやいや、単に仕事や生活で忙しいからだ。ジムに行くこと自体が「無理している状態」だとしたら、誰だって長くは続けられない。続けられるのは、さほど無理な状態でないからだ。あるいはそれだけ強い動機や、切迫した事情があるからだ。

 たとえば前述の「礼拝に行きたいけど行けなかった」人が、同じような事情で仕事や学校を休むかと言うと、休まない。なぜか。仕事を休んだら給料が入らないし、職場での立場が悪くなって困るからだ。学校を休んだら単位がもらえなくて困るからだ。でも教会を休んでも、(通常は)さほど困った事態にはならない。

 根本的に、動機の強さが違う。

 動機がないとできない、逆に言うと全ての行動には理由がある、というのは、繰り返すけど人間の性質である。だからその部分で悩んだって仕方がない。どうしたって変えられないからだ。ゲームのプレイヤーは、ゲームのルールを変えられないことで悩まない。そのルールの中でいかにプレイするかが肝心だから。

 で、冒頭の「礼拝に行けなかった」「愛を持てなかった」「祈れなかった」に戻るけど、そういう人はそもそもの動機から考えることをお勧めする。なぜそうしなければならないと思うの? 牧師や先輩クリスチャンにそう言われるから? 「聖なる」イメージがあるから? でも今までの説明からすると、そういう動機ではできない。

 またあるいは「礼拝しないと神様に喜ばれない」「祈らないと神様に喜ばれない」「聖書を読まないと・・・」「奉仕しないと・・・」「献金しないと・・・」という動機かもしれない。でも結果的にできていないとしたら、本当に「神様に喜ばれたい」とは思っていない。それが悪いという話でなくて。

 そこにはちょっと勘違いもあるかもしれない。いわゆる「神の愛」についての勘違い。
 私たちは礼拝に行かないと神様に愛されないのか。聖書を読んだり祈ったりしないと愛されないのか。沢山奉仕して献金しないと愛されないのか。答えは否。神様は罪人を愛している。そこに条件はない。神様を信じていなくても、沢山罪があっても、どんなに大きな問題があっても、神様は愛している。だから礼拝に行かないことで神の愛を喪失するのではない。自分の行為一つで神の愛がどうにかなると思ったら、それはむしろおこがましい。

 また「毎週礼拝に行かなきゃ」「毎日聖書を読まなきゃ」「必死で祈らなきゃ」みたいな「敬虔なクリスチャンっぽいこと」は、イメージである部分が大きい。あるいは「見た目」の部分が大きい。「見た目」の話であれば、現代の熱心なクリスチャンらがこぞって敵視する聖書中の「パリサイ人」や「律法学者」だって、「すごく敬虔そう」だったのだ。彼らだって沢山礼拝して、沢山祈って、聖書を熟知していたのだ。でもキリストの評価はどうだった?

 だから、大切なのは動機なんだと思う。

 安心してほしいのは、あなたが礼拝に行けなかったから、祈れなかったから、聖書を読めなかったから、という理由で神様はあなたを責めない、ということ。そういうことであなたを責めるのは、ちょっと勘違いした牧師や先輩クリスチャンたちだけだ。神様があなたを愛しているのは変わらない。ちっとも変わらない。

 もちろん教会に行くのは良いことだと思うし、聖書も祈りも奉仕も良いことだと思う。それをクリスチャンの義務だと言う人もいるだろう。でもそれが義務「でしかない」としたらあまり意味がないし、本質を捉えきれていないと思う。それより大事なのは私たち自身がそれを少なからず喜んでいる(興味を持っている)ことであって、その喜びも、無理やり自分を喜ばせているというレベルでないことだ。

 時々教会でこんなことを言われるかもしれない。
「御霊に仕えているんだから、喜びがありますよね?」
 そこで正直あんまり喜べてないなあと思ったら、それは喜びを義務化されているだけ。あるいは強要されているだけ。
 ということはわかっていてもらいたい。

2016年4月9日土曜日

ブログを書く理由についてちょっと整理してみた

 最近気づいたのだけど、SNSで粘着されている。
 少し、追っかけられてるアイドルみたいな心境でもある(ちっとも嬉しくないけど)。
 どうするべきかしばらく検討してみたけれど、今のところ無視が一番のようだ。明らかな名誉棄損があれば、スクショを保存して警察に相談し、対象アカウントの個人情報を開示させて訴訟を起こすしかない。けれど現段階ではそこまでする必要はなさそうだ(必要があれば躊躇なく実行する)。

 経緯はと言うと、私が普段からここで、あるいはSNSで書いている「毒」をお気に召さないアカウントが最近現れて、しつこくケチを付けはじめた。ブロックしても相手は私の投稿を見ていて、何やかやと言っているらしい(見ていないから詳細はわからない。別の人が反撃してくれたみたいだけど)。
 しかしケチと言ってもいわゆる「エアリプ」で、私に直接何か言ってくることはない。文句があるなら直接言えばいいのにね。リアルではコミュ障なのかな。

  私がキリスト教信仰について吐いている毒は、ある意味すごく極端なんだろうと思う。というのはカルト的教会の、どう考えても「おかしい」事態について書いているから、カルトっぽくない教会の人からしたら、「何をそこまで」みたいに思うのかもしれない。私としてはかなり危機感をもって書いているけれど、そういう警告を必要としない人からしたら、「批判してるだけ」と映るのだろう。それはそれで仕方がないとは思う(しかしそこには、批判と中傷の混同がある)。

 時々、そういう私に対して「神様はね・・・」とか「信仰とは・・・」とか上目線なご教示を垂れる人がいるけれど、何だかなあと思う。べつにそれらを否定する気はないし、たぶん私の言葉や説明が足りないからってのもあると思うんだけど、話がズレていて、失礼ではないかと思う。ちゃんと文脈を読んで発言してほしいんだけど。

 私は信仰について模索している訳でもなければ否定している訳でもない。私が書いているのは「正しい信仰とは何か」でなく、「間違った信仰とは何か」の方だ。だから「正しさ」について議論するつもりはない。そういうのは偉い人たちがしたらいい。そうでなく私がしたいのは、○○は間違っていてひどく人を傷つけるものだから気をつけてほしい、というような話だ。だから「立派な」クリスチャンの方々の、「ありがたい」ご教示の数々は、私の主張とはそもそもベクトルが違う。

 私はカルト的教会や、それに傾きやすい信仰の在り方について書いている。そうでない教会やクリスチャンについては何も言っていない。だから私の発言で腹を立てるのは基本的にカルトっぽい人たちか、あるいは原理主義的な人たちだと思う(カルトっぽい=原理主義、なのかもしれないけど)。

 カルトっぽい人たちには次のような特徴がある。

・自分の信仰が唯一絶対正しいと思っている。
・他の信仰の在り方、他の意見に耳を貸せない。
・どれだけ理路整然と説明されても「こいつは真理がわかってない」で一蹴する。

 だから基本、言っても無駄なのだ。彼らが気付く唯一の方法(と私が思うもの)は、自分たちが火を被ることだ。
 映画『セブン』の犯人の名言を借りるなら、「肩を叩くくらいじゃダメだ。ハンマーで殴りつけないと」
 もちろんそれは比喩であって、ハンマーは関係ない。要は、「自分が痛い目を見ないとわからない」ということ。

 ただ、ちょっとやそっとの痛みでは気付かない、というのもまた事実。「神様の要求だから」と言われて幾晩も徹夜で奉仕するとか、国民健康保険と国民年金の支払免除申請を数か月おきに区役所に出しに行くとか、明日の食事代がないと悩んで夜を過ごすとか、奉仕がうまくできなくて怒鳴られたり殴られたりとか、そういう目に遭っても「これは信仰の試練だから・・・ハレルヤ!」みたいな話になってしまう(ダメだこりゃ)。

だからここで色々な酷いケースを紹介して、説明しているのである。それで少しでも多くの人に読んでもらって、少しでも考えてもらえれば、と願っている。その辺に関して私は真剣である。

その意味で、冒頭で紹介した粘着クンも、「中傷」という形ではあるが私の記事を紹介してくれるので、ありがたい側面はある。利用できるものは何でも利用してやらないとね。

という訳で私は悪意あるエアリプも中傷も全然気にしていないので、好きなようにやってくれればいいと思う。ただ名誉毀損のレベルになったら法的手段に出るので、その辺の覚悟が必要なのは明言しておく。ネットは全然匿名ではない。

また個人的には、そういう粘着や中傷にどんな得があるのか全然理解できない。時間の無駄でしかないと思うし、そんなことに時間を費やすには人生は短すぎると思うのだけれど。

2016年4月7日木曜日

「一致」という名の教会内プロパガンダ

 教会で指導者(主に牧師)により語られるプロパガンダの話を続ける。

 私の牧師が強調していた「教会のあるべき姿」の一つに、「一致」があった。
 教会のみんなで一致していこう、それで平和を保っていこう、だって聖書にもそう書いてあるでしょ?
 ということでいろんな場面で「一致しよう」が語られ、いろんな事柄が「一致しよう」で決められていった。

 で、たとえば教会でカフェを経営しようみたいな話になった時も、なんでカフェをやるべきなのかとか、本当に今このタイミングでカフェを始めるべきかとか、そういう話にはならない。「カフェを始めるよう導かれている」という台詞が牧師の口から出た瞬間から、「カフェを始める」ことは前提になっていて、もうその部分で異論を挟むことはできないからだ。すでに話はそこじゃなくて、どこでカフェをやろうかとか、どんな雰囲気にしようとか、誰が担当しようとか、そういう話になっている。

 そこでも「一致しよう」がふんだんに語られ、たとえばカフェの運営に全然興味のない人(むしろ嫌がっている人)がカフェの何かを担当させられる。そこで「カフェはちょっと・・・」(そんな言い方しかできない)とか言ってしまうと、「これは教会のビジョンなんだよ? それに一致できないの? それじゃ立派なクリスチャンになれないよ? 神様にも喜ばれないよ?」とか、いろいろ責めれられてしまう。

 結果、断れない。

 同じような例は他にもあって、たとえば子供向けの集会で、ちょっとした劇をする時。劇はさすがにある程度の適性が必要だから、基本的には、芝居好きな人が担当する。でも人員不足だったりすると、全然芝居向きじゃない人に話が振られる。当然嫌がる。相手は子供とはいえ、大勢の前で演技するなんて、誰にでもできることじゃない。でも、振られる。
「え、劇はちょっと・・・」(やっぱりそういう言い方しかできない)とか遠まわしに断ってみると、またアレである。
「なに? 神様への奉仕ができないの? みんな恥を忍んで、喜んでやってるんだよ? それに一致できないわけ? それじゃ神様に喜ばれないよね?」

 結果、断れない。

 つまり、「一致」を使って不本意なことが強要される。それが神様からの要求であるかのように語られて。断ったらクリスチャン失格くらいの勢いで。

 もちろん生きてれば、不本意なことをしなければならない時もある。仕事をしていればイヤなことも沢山ある。いつもやりたいことができる訳ではない。でもそこは教会であって、基本的に慈善の気持ちで、そして多くの場合は無償で提供する奉仕なのだ。進んで嫌なこと、不向きなことをしなければならない道理などない。有償であればまだ理解できるけれど。

 しかし仮に有償だとしても他の問題がある。そういうカフェとか子供向け集会とかを全部「神の御心」「神からの要求」としてしまっている点だ。

 べつにそれら一つ一つが悪い訳ではない。カフェでも集会でも自由に開けばいい。けれど牧師が言うタイミングで、牧師が好むスタイルのカフェを開くのが神からの絶対的な使命で、クリスチャンであれば真摯にそれに従わなければならない、そうすることが「一致」なのだ、断るなんてとんでもない、というのは少々一方的すぎる。

 実際、カフェの話で言えば、スタッフは終日働いたって無給だったし、それでも店としての採算は取れてなかったし、べつに伝道に繋げようみたいな工夫もなかった。今思うと、牧師の「こういうお洒落なカフェをやりたい」に、皆で付き合っていたに過ぎない。皆で「一致」して。

 そこでは「一致しよう」というのが、あらゆる反対意見を殺して従わせるための方便として使われていた。要はこんな感じ。

①皆それぞれが好きなことを言っていたら一致できないでしょ。
②だから我慢も必要だし、1つのことを決めて、全員でそれに向かうのが教会の一致でしょ。
③でもそれは神様の為の一致なのだから、必ず祝福されるんだよ?
④だから個々の意見がどうであっても、牧師に従うのが一番なんだよ

 みたいな論理。

 それを補強するために、たとえば聖書のソロモンの神殿封建のシーンなんかが取り上げられる。皆で一致して賛美したから、まるで1人が歌っているように聞こえたんだよ? それだけすごい一致を求められているんだよ? とか。
 そして、コンテンポラリー賛美「ワン・ボイズ」なんかがけっこう頻繁に礼拝で歌われるのだった(あれはどちらかと言うと神様へ捧げる歌というより、皆で一致できて素晴らしいねっていう自分たちへのエールみたいな歌だけど)。
 でも、同じ聖書で弟子たちが一致していない例、たとえばパウロとバルナバの喧嘩別れのシーンとか、パウロがぺテロを批判したシーンとか、そういうのは全然取り上げられない。

 また、「一致」と言っても結局のところ、いつも信徒たちが自分の意見を殺すよう強要されるだけで、そう言う牧師自身は自分の意見を殺すことなんて一度もなかったし、無理に従うことなんて絶対なかった。自分だけは別格なんだと言わんばかりに。

 だから「皆で教会の一致を保っていこう」というのは、字面的には全然間違っていないし、そうあるべきだと思うけれど、私の教会での用法は完全に間違っていた。すなわちそれが本当に神の御心かという検証の一切を退け、個々人を黙らせ、牧師の個人的願望を実現するためにだけ使われていた。にもかかわらず信徒らは、「私たちは自分を犠牲にしてまで一致を保っている。なんて素晴らしいんだろう」みたいなよくわからない誇りを持っていた。そしてカフェとかで毎日タダでコキ使われて、喜んでいるのだった。

 という訳で今日の結論。「一致」が何かってことをよく考えましょう。

2016年4月1日金曜日

映画『パージ』にみる教会内プロパガンダ

 映画『パージ』と『パージ:アナーキー』をDVDで鑑賞。
 大変興味深かった。キリスト教とは全然関係ない話だけれど、似たような構図が一部の教会にもあると思った。
  為政者の政策にはホンネとタテマエがあって、そのタテマエの方だけ見て支持してしまう人々がいて、でも結果それで一番苦しむのはなんと支持者たちである。というのと同じような種類の皮肉が、一部の教会でもあるなと思った訳だ。

 でこの2作品の簡単なあらすじを書くと、舞台は近未来アメリカ。「パージ法」が成立していて、年に一晩、19時から翌朝7時までの12時間、殺人を含むあらゆる犯罪が合法とされる。その夜は警察も病院も、その他の公的機関も一切機能しない。だから国民は何でもやりたい放題なんだけど、逆に言うと自分も何をされるかわからない、かなり危ない夜である。一般的な市民は自宅をできるだけ防御して、ただその夜を無事に過ごしたいとだけ思っている。「安全な夜を」という言葉が、その日限定の挨拶となっている。
 でも、どうしても誰かを殺したいとか、盗んででも奪ってでもお金が必要だとか、そういう事情がある人たちにとっては、年に1度のチャンスとなる。

 で、『パージ』の方は、高級住宅街に住むある家族の話。自宅を万全のセキュリティで守り、その夜を静かに過ごしたい一家なのだけれど、殺人者から逃がれてきたホームレスの男を匿ってしまったことでとんだ災難に遭う。 舞台は家の中だけで、映画としてはこじんまりしている。けれど善良な家族に無事でいてほしいと感情移入してしまうので(たぶん)、最後までドキドキしながら観ることになる。さてこの家族の運命やいかに。

 で『パージ:アナーキー』の方は、舞台は打って変わってダウンタウン。パージの夜が始まったとたん、そこらじゅうで暴力や銃撃や殺人が起こり、さながら戦場である。そこに完全武装で踏み出す男が1人。彼は普段は警官なのだけれど、その夜は復讐を果たすべく銃を手に取った。しかしその道すがら、逃げ惑う母娘や若夫婦を助けたことで軍隊(?)と戦う羽目になったり、金持ちたちの殺人ショーに駆り出されたりと、想定外の夜を過ごすことになる。さて、彼は朝までに復讐を遂げることができるのか。

 パージには「浄化」という意味があり、普段抑圧している欲望を解放して殺人とか強盗とかの犯罪を犯すことで、魂を「浄化する」のが目的、とされている。この「パージ法」が施行されてから、犯罪は減少し、経済は好転、貧困率も低下したという。だから「パージ法」は、物騒ながらも国民から支持れている。

 しかし「魂の浄化」なんてのはタテマエで、ホンネは全然別である。つまり「おカネ」。種を明かすと、パージの真の犠牲者は貧困層であり、毎年大勢の貧困層がパージのもとで殺される。貧困ゆえ十分な自衛ができないからだ。そして貧困層が減れば貧困率も当然下がるし、社会保障費も削減れる。すると相対的に経済は上向きになる。貧困ゆえの犯罪も減少する。
 つまり「パージ法」とは、万人に平等なチャンスを提供するためのものでなく、貧困層を滅ぼして強者だけの社会にしようという試みな訳だ。

『パージ:アナーキー』の方が、それを如実に現している。たとえば行政が区画整理したい地域の住人を非公式の軍隊が一掃したり、殺人を楽しみたい金持ちたちがカネを払って犠牲者(貧困)を買ったりする。武器を持たない貧困層には抵抗する術がほとんどない。

 この、政治をやる人は「みんなのため」と言うけれど、実はそれは一部の人のためだけで、その陰で犠牲になっている人たちがいる、という構図に、私は自分の教会生活を思い出した。
 
 たとえばよく出す話だけれど、「新会堂を建てよう」という話。牧師は言う。
 
「新会堂を建てるよう神様に導かれた」
「これはあくまで神からの要求であって、私の個人的願望ではない。私も神に従っているだけだ」
↓ 
「だから教会員全員もこれに従う必要があるまた従うことで皆の益にもる」
 ↓
「従う以上、全員で必要なことをしなければならない(つまり献金)」
「はい、立派な新会堂が建ちました。ハレルヤ!(同時に立派な牧師館建ちました。ちなみにその献金をするために親孝行とか子供の教育とか家族旅行とかを諦めた人たちがいます)」
 
 こういう構図は他にもあって、たとえば「牧師が伝道のために使う車」とか、「最高の賛美をするために使う楽器」とか、「荘厳な雰囲気にするための照明機材」とか、「神の器を歓迎するための高級料理」とか、その他諸々。
 
 そういうのが全部悪いのではない。問題は、献金する側にそれらの必要性や必然性がまったく説明されないことだ。あるいはもうそれらが「絶対必要」という前提になっていて、何の議論もできず、そのうえで「献金しないのは教会員として非常識だ」とか「牧師に世話になっているくせに恩に報いようとしないのか」とかいう話になっているのが問題なのである。
 
 パージは「みんなの魂を浄化するためだ」と言いつつ、邪魔な弱者を抹殺するために行われる。一部の教会で標榜される上記のような事柄も、一部の人間の特権のためにその他大勢が利用される、という構図を持っている。だからそれは神から出たものではない。人間から出たものに「神に語られた」というラベルを貼っただけだ。だからそれらはプロパガンダであり、早い話がウソなのである。
 
 そういう訳で映画『パージ』と『パージ:アナーキー』は、「公然と語られるウソ」について考えさせる大変優れた映画だと思う。
 特に『アナーキー』の方が爽快感があって良いのだけれど、話の流れ的に、『パージ』から観るのが私のお勧め。
 
 あと、「神に語られた」にはみなさんにも十分気を付けてほしいと思う。というところで今日は終わり。