2016年4月1日金曜日

映画『パージ』にみる教会内プロパガンダ

 映画『パージ』と『パージ:アナーキー』をDVDで鑑賞。
 大変興味深かった。キリスト教とは全然関係ない話だけれど、似たような構図が一部の教会にもあると思った。
  為政者の政策にはホンネとタテマエがあって、そのタテマエの方だけ見て支持してしまう人々がいて、でも結果それで一番苦しむのはなんと支持者たちである。というのと同じような種類の皮肉が、一部の教会でもあるなと思った訳だ。

 でこの2作品の簡単なあらすじを書くと、舞台は近未来アメリカ。「パージ法」が成立していて、年に一晩、19時から翌朝7時までの12時間、殺人を含むあらゆる犯罪が合法とされる。その夜は警察も病院も、その他の公的機関も一切機能しない。だから国民は何でもやりたい放題なんだけど、逆に言うと自分も何をされるかわからない、かなり危ない夜である。一般的な市民は自宅をできるだけ防御して、ただその夜を無事に過ごしたいとだけ思っている。「安全な夜を」という言葉が、その日限定の挨拶となっている。
 でも、どうしても誰かを殺したいとか、盗んででも奪ってでもお金が必要だとか、そういう事情がある人たちにとっては、年に1度のチャンスとなる。

 で、『パージ』の方は、高級住宅街に住むある家族の話。自宅を万全のセキュリティで守り、その夜を静かに過ごしたい一家なのだけれど、殺人者から逃がれてきたホームレスの男を匿ってしまったことでとんだ災難に遭う。 舞台は家の中だけで、映画としてはこじんまりしている。けれど善良な家族に無事でいてほしいと感情移入してしまうので(たぶん)、最後までドキドキしながら観ることになる。さてこの家族の運命やいかに。

 で『パージ:アナーキー』の方は、舞台は打って変わってダウンタウン。パージの夜が始まったとたん、そこらじゅうで暴力や銃撃や殺人が起こり、さながら戦場である。そこに完全武装で踏み出す男が1人。彼は普段は警官なのだけれど、その夜は復讐を果たすべく銃を手に取った。しかしその道すがら、逃げ惑う母娘や若夫婦を助けたことで軍隊(?)と戦う羽目になったり、金持ちたちの殺人ショーに駆り出されたりと、想定外の夜を過ごすことになる。さて、彼は朝までに復讐を遂げることができるのか。

 パージには「浄化」という意味があり、普段抑圧している欲望を解放して殺人とか強盗とかの犯罪を犯すことで、魂を「浄化する」のが目的、とされている。この「パージ法」が施行されてから、犯罪は減少し、経済は好転、貧困率も低下したという。だから「パージ法」は、物騒ながらも国民から支持れている。

 しかし「魂の浄化」なんてのはタテマエで、ホンネは全然別である。つまり「おカネ」。種を明かすと、パージの真の犠牲者は貧困層であり、毎年大勢の貧困層がパージのもとで殺される。貧困ゆえ十分な自衛ができないからだ。そして貧困層が減れば貧困率も当然下がるし、社会保障費も削減れる。すると相対的に経済は上向きになる。貧困ゆえの犯罪も減少する。
 つまり「パージ法」とは、万人に平等なチャンスを提供するためのものでなく、貧困層を滅ぼして強者だけの社会にしようという試みな訳だ。

『パージ:アナーキー』の方が、それを如実に現している。たとえば行政が区画整理したい地域の住人を非公式の軍隊が一掃したり、殺人を楽しみたい金持ちたちがカネを払って犠牲者(貧困)を買ったりする。武器を持たない貧困層には抵抗する術がほとんどない。

 この、政治をやる人は「みんなのため」と言うけれど、実はそれは一部の人のためだけで、その陰で犠牲になっている人たちがいる、という構図に、私は自分の教会生活を思い出した。
 
 たとえばよく出す話だけれど、「新会堂を建てよう」という話。牧師は言う。
 
「新会堂を建てるよう神様に導かれた」
「これはあくまで神からの要求であって、私の個人的願望ではない。私も神に従っているだけだ」
↓ 
「だから教会員全員もこれに従う必要があるまた従うことで皆の益にもる」
 ↓
「従う以上、全員で必要なことをしなければならない(つまり献金)」
「はい、立派な新会堂が建ちました。ハレルヤ!(同時に立派な牧師館建ちました。ちなみにその献金をするために親孝行とか子供の教育とか家族旅行とかを諦めた人たちがいます)」
 
 こういう構図は他にもあって、たとえば「牧師が伝道のために使う車」とか、「最高の賛美をするために使う楽器」とか、「荘厳な雰囲気にするための照明機材」とか、「神の器を歓迎するための高級料理」とか、その他諸々。
 
 そういうのが全部悪いのではない。問題は、献金する側にそれらの必要性や必然性がまったく説明されないことだ。あるいはもうそれらが「絶対必要」という前提になっていて、何の議論もできず、そのうえで「献金しないのは教会員として非常識だ」とか「牧師に世話になっているくせに恩に報いようとしないのか」とかいう話になっているのが問題なのである。
 
 パージは「みんなの魂を浄化するためだ」と言いつつ、邪魔な弱者を抹殺するために行われる。一部の教会で標榜される上記のような事柄も、一部の人間の特権のためにその他大勢が利用される、という構図を持っている。だからそれは神から出たものではない。人間から出たものに「神に語られた」というラベルを貼っただけだ。だからそれらはプロパガンダであり、早い話がウソなのである。
 
 そういう訳で映画『パージ』と『パージ:アナーキー』は、「公然と語られるウソ」について考えさせる大変優れた映画だと思う。
 特に『アナーキー』の方が爽快感があって良いのだけれど、話の流れ的に、『パージ』から観るのが私のお勧め。
 
 あと、「神に語られた」にはみなさんにも十分気を付けてほしいと思う。というところで今日は終わり。

2 件のコメント:

  1. 儀式が必要なカトリックと違って、説教中心のプロテスタント教会は、教会堂を持つ必要はないと思います。

    キリスト教を継承するなら、巷の書店にキリスト教の本は出回っていますし、キリスト教系の大学もあり、それらで十分キリスト教を勉強することができます。

    教会堂を建てても、実際には使うのは、教会堂によく出入りする牧師や信徒たちのみで、彼らは自分たちの別荘を建てているようなものです。


    だったら、そのための費用や労力の幾分かでも地域のためや社会的弱者のために使った方が、隣人愛の実践になるのではないかと思います。

    記事の内容と違ったコメントですみません。
    これからも楽しみにしています。

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  2. 「神」を持ち出せばなんでもやれてしまう・・・これがプロテスタントの恐ろしさなのではないのかと思うのです。
    どうしてプロテスタントがこのようなことができてしまうかといいますと、やはり「神と自分が直接つながっている」という感覚をもってしまうがゆえではないでしょうか。
    「私は神様と直接つながっている」→「だから私はえらい」→「さあ、大きな建物を建てましょう」→「私の言うことは神の命令だから従わないと地獄に落ちる」となってしまうのです。
    この手の話で不思議なのは、万人司祭の建前がなぜか全くこのときは機能しないことでしょう。神とつながっていて、神から示されるなんらかのメッセージを受け取ることができる人」は、どういうわけなのかたった一人しかいません。
    信者が「神とつながっているのはみんな同じです。自分も祈ってみました。すると神は『今の建物でもまだ十分に使えるから、何も信者に負担をかけて新しい建物なんか建てる必要はない』というメッセージをしめされました」と主張することは許されません。神からのメッセージを受け取って伝えることができるのは、聖職者ただ一人に限定されているからです。
    結局のところ教皇を消し去ってみたら、そのあとに修行をしっかりとつむこともなく、ついでにいうなら出家もしないので家族にいい生活をさせたいし子供に財産を残そうとする、教皇以上に強力な権限を持つ生き神様=プチ文鮮明が大量に生み出されただけだったのです。

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