2016年4月7日木曜日

「一致」という名の教会内プロパガンダ

 教会で指導者(主に牧師)により語られるプロパガンダの話を続ける。

 私の牧師が強調していた「教会のあるべき姿」の一つに、「一致」があった。
 教会のみんなで一致していこう、それで平和を保っていこう、だって聖書にもそう書いてあるでしょ?
 ということでいろんな場面で「一致しよう」が語られ、いろんな事柄が「一致しよう」で決められていった。

 で、たとえば教会でカフェを経営しようみたいな話になった時も、なんでカフェをやるべきなのかとか、本当に今このタイミングでカフェを始めるべきかとか、そういう話にはならない。「カフェを始めるよう導かれている」という台詞が牧師の口から出た瞬間から、「カフェを始める」ことは前提になっていて、もうその部分で異論を挟むことはできないからだ。すでに話はそこじゃなくて、どこでカフェをやろうかとか、どんな雰囲気にしようとか、誰が担当しようとか、そういう話になっている。

 そこでも「一致しよう」がふんだんに語られ、たとえばカフェの運営に全然興味のない人(むしろ嫌がっている人)がカフェの何かを担当させられる。そこで「カフェはちょっと・・・」(そんな言い方しかできない)とか言ってしまうと、「これは教会のビジョンなんだよ? それに一致できないの? それじゃ立派なクリスチャンになれないよ? 神様にも喜ばれないよ?」とか、いろいろ責めれられてしまう。

 結果、断れない。

 同じような例は他にもあって、たとえば子供向けの集会で、ちょっとした劇をする時。劇はさすがにある程度の適性が必要だから、基本的には、芝居好きな人が担当する。でも人員不足だったりすると、全然芝居向きじゃない人に話が振られる。当然嫌がる。相手は子供とはいえ、大勢の前で演技するなんて、誰にでもできることじゃない。でも、振られる。
「え、劇はちょっと・・・」(やっぱりそういう言い方しかできない)とか遠まわしに断ってみると、またアレである。
「なに? 神様への奉仕ができないの? みんな恥を忍んで、喜んでやってるんだよ? それに一致できないわけ? それじゃ神様に喜ばれないよね?」

 結果、断れない。

 つまり、「一致」を使って不本意なことが強要される。それが神様からの要求であるかのように語られて。断ったらクリスチャン失格くらいの勢いで。

 もちろん生きてれば、不本意なことをしなければならない時もある。仕事をしていればイヤなことも沢山ある。いつもやりたいことができる訳ではない。でもそこは教会であって、基本的に慈善の気持ちで、そして多くの場合は無償で提供する奉仕なのだ。進んで嫌なこと、不向きなことをしなければならない道理などない。有償であればまだ理解できるけれど。

 しかし仮に有償だとしても他の問題がある。そういうカフェとか子供向け集会とかを全部「神の御心」「神からの要求」としてしまっている点だ。

 べつにそれら一つ一つが悪い訳ではない。カフェでも集会でも自由に開けばいい。けれど牧師が言うタイミングで、牧師が好むスタイルのカフェを開くのが神からの絶対的な使命で、クリスチャンであれば真摯にそれに従わなければならない、そうすることが「一致」なのだ、断るなんてとんでもない、というのは少々一方的すぎる。

 実際、カフェの話で言えば、スタッフは終日働いたって無給だったし、それでも店としての採算は取れてなかったし、べつに伝道に繋げようみたいな工夫もなかった。今思うと、牧師の「こういうお洒落なカフェをやりたい」に、皆で付き合っていたに過ぎない。皆で「一致」して。

 そこでは「一致しよう」というのが、あらゆる反対意見を殺して従わせるための方便として使われていた。要はこんな感じ。

①皆それぞれが好きなことを言っていたら一致できないでしょ。
②だから我慢も必要だし、1つのことを決めて、全員でそれに向かうのが教会の一致でしょ。
③でもそれは神様の為の一致なのだから、必ず祝福されるんだよ?
④だから個々の意見がどうであっても、牧師に従うのが一番なんだよ

 みたいな論理。

 それを補強するために、たとえば聖書のソロモンの神殿封建のシーンなんかが取り上げられる。皆で一致して賛美したから、まるで1人が歌っているように聞こえたんだよ? それだけすごい一致を求められているんだよ? とか。
 そして、コンテンポラリー賛美「ワン・ボイズ」なんかがけっこう頻繁に礼拝で歌われるのだった(あれはどちらかと言うと神様へ捧げる歌というより、皆で一致できて素晴らしいねっていう自分たちへのエールみたいな歌だけど)。
 でも、同じ聖書で弟子たちが一致していない例、たとえばパウロとバルナバの喧嘩別れのシーンとか、パウロがぺテロを批判したシーンとか、そういうのは全然取り上げられない。

 また、「一致」と言っても結局のところ、いつも信徒たちが自分の意見を殺すよう強要されるだけで、そう言う牧師自身は自分の意見を殺すことなんて一度もなかったし、無理に従うことなんて絶対なかった。自分だけは別格なんだと言わんばかりに。

 だから「皆で教会の一致を保っていこう」というのは、字面的には全然間違っていないし、そうあるべきだと思うけれど、私の教会での用法は完全に間違っていた。すなわちそれが本当に神の御心かという検証の一切を退け、個々人を黙らせ、牧師の個人的願望を実現するためにだけ使われていた。にもかかわらず信徒らは、「私たちは自分を犠牲にしてまで一致を保っている。なんて素晴らしいんだろう」みたいなよくわからない誇りを持っていた。そしてカフェとかで毎日タダでコキ使われて、喜んでいるのだった。

 という訳で今日の結論。「一致」が何かってことをよく考えましょう。

2 件のコメント:

  1. >聖書のソロモンの神殿封建のシーンなんかが取り上げられる。皆で一致して賛美したから、まるで1人が歌っているように聞こえたんだよ? それだけすごい一致を求められているんだよ? 

    歴代誌下5:13を比較すると、新共同訳は「ひとりのように声を合わせて主をほめ」(口語訳)のように、「一人で歌っているかのように皆が一致して」という強い表現になっていないので、ピンとこなかったのは致し方ないような気が。新改訳はさらに言葉が多くて笑えますが。
    ともあれ、だから教会というところは、礼拝参列者が皆で歌うときに、ユニゾンで歌うように強くせまるときがあるんだ、皆が同じメロディーで歌ってほしいんだ、あらためてわかりました<そのわりには、賛美のときは教会のひとたちはみんな歌声小さかったような気がしてるのですがね。特に女声は>

    じゃ、讃美歌54年版に四部音譜が載っていたのは、なぜだったのかしらん。
    讃美歌21にも載ってるし。
    奏楽者のため?聖歌隊の特別賛美用?

    あまり教会のトップである牧師が「一致」を求めるのも、ファシズムくさい気がします。
    「一致」といえば、コリント第一1:10は教会青年会のときリーダーにしきりに使われて、おれの言うこと聞け、聖霊に満たされているのならな!のニュアンスだったので、今なら笑えるけど、あの時は閉口しました。30年前の話ですが。

    そんな自分だから、正教会の、聖歌隊以外は歌わないというやり方に、凄くホッとしています。

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  2. 「神に語られました」
    「教会の一致が大切です」

    この二つのセリフを用いれば何でもできますし、何をやってもいいということになりますか。
    四月一日の「神に語られた」と今日の「教会の一致が大切です」は、要するに同じことを言っているわけですよね。これは簡単に言えば「教祖様に従え!」ですよ(笑)。

    よく「新興宗教系のプロテスタントで禁止されている事項は何でしょうか?」という質問に対し、必ずと言っていいほどいの一番に出てくる回答は、「疑問を持つこと」です(笑)。
    「神に語られました」とか「教会の一致が大切です」というセリフをはきさえすれば、「疑問を持ってはいけない」という指導がいとも簡単にできるわけでしょうね。

    「教会の一致」といいますが、これは共産党の民主集中制とちょっと似ているところがあるかもしれませんよ。マルキシズムはキリスト教が生んだ最大のカルトといえるでしょうが、新興宗教系のプロテスタントとマルキシズムは、キリスト教系のカルトとして両翼をなすといえるのかもしれません。
    カルト化した新興宗教系のプロテスタントの教会の被害者たちは、口をそろえてこういいます「ポル・ポト政権下のカンボジアみたいな教会だった」
    娯楽やおしゃれは一切許されず、神はオンカーでしょうか。医療拒否でがんが手遅れになった人、会社を解雇されたり離婚されたりで人生を失った人・・・どうみてもキリングフィールドですよ。殺す手段は狂信が棍棒というわけですかね(苦笑)。

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