クリスチャンの「祈り」と「行動」について(熊本地震に際して)

2016年4月17日日曜日

信仰に見せかけた…

t f B! P L
※熊本県および周辺地域で発生した地震について、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 熊本県にはクリスチャン関係の知り合いが複数いる。地震発生翌日の4月15日の朝、私は電話連絡した(発生当時は現地の回線確保を考えてしなかった)。水俣の知り合いは無事だった。揺れはあったけれど、被害はなかったとのこと。それより熊本市内のライフラインが停止しており、飲食に事欠く状況になっていて(15日時点)、さっそく熊本市内の教会に物資を届ける手配をしている、とのことだった。

 状況が許されれば被災地に行きたいけれど、今は行ける人たちを支援することが肝要かと思う。また仮に自分が現地に行けるとしても、本当に行くべきかどうかは検討が必要だと思う。東日本大震災(2011年)の時に実感したことだけれど、現地に行くことよりも、そこで必要とされることが自分にできるか、の方が肝心だ。1人で何も持たず何の繋がりもない状態で行っても、結局邪魔しに行くことになりかねない。行くならちゃんとした情報を得て、どこに何をしに行くのか、計画してから行くべきだと思う。

 引き続き、自分にできることをしたいと思う。

 ところで早速だけれど、「祈りましょう」というクリスチャンの発言をあちこちで目にする。「何もできないけれど、祈ることはできる」という訳で、「被災地に平安があるように」みたいな「祈りのリスト」をいくつか挙げている。まあ善意によるものだと思うけれど、私にはどうも違和感がある。なんで祈るだけなの? という違和感だ。

 これが遠い海外で起きた出来事で、現地の言葉がわからず、連絡方法も送金方法も確立されておらず、文字通り「何もできない」状態なら、「祈るしかない」となるのもわかる。けれど熊本県は日本国内であって、現地にも周辺にも教会は沢山あるし、日本語も通じるし、電話も送金も荷物の配送も可能なのだ(被災地が無理だとしてもその周辺には)。
 できること、沢山あるけど? なんで祈るだけなの?
 というのが私の率直な感想だ。

 もちろん何かをしろって話ではない。同胞なんだから助けなさいって話ではない。そうでなく、「祈りましょう」と言うほどに「心が動いている」なら、当然祈る以外にも何かするはずでしょ? と思うだけだ。それが見ていると、祈ることだけで満足している。

 何のための祈りなの? それ?
 ここはとりあえずクリスチャンらしく祈っておこう、みたいな?

 あえて厳しいことを書くと、そんな祈りなら意味はない。だったら祈らない方がいい。祈る時間を使ってネットで周辺の教会を探し、電話一本でも入れる方がまだ何かの役に立つと思う。

 たぶんこれは、自分自身が被災してみればよくわかる。突然の被災で、突然の避難生活が始まり、突然プライバシーを失い、飲食に事欠き、寒く、不安で、眠れない夜を過ごす。情報はほとんど入ってこない。いろいろな人がいろいろなことを言う。配給された水や食料をもらいに行く。トイレは仮設に列を作る。洗濯も入浴もできない。仕事やお金や今後の生活がどうなるのかわからない。そんな状態が数日から数週間続く。でも徐々に生活が立て直されていき、ようやく一息つく。だいぶ経ってから、遠方の知り合い(クリスチャン)とたまたま話す機会があり、こう言われる。「あのときは祈ってましたよ~」
 その時になって気付くだろう。こいつは自分の「隣人」ではないと。

 「良きサマリヤ人」の話はクリスチャンなら誰でも知っているだろう。強盗に襲われた旅人が行き倒れていて、祭司とレビ人は見過ごして行ってしまった。けれど当時蔑まれていたサマリヤ人だけが彼を助けて介抱した。旅人の隣人は誰? サマリヤ人でしょう、って話。
 祭司とレビ人が何を考えていたかは書かれていないけれど、「きっと誰かが助けるだろう」とか、「とりあえず祈っておこう」とか、考えたんだと思う。 サマリヤ人だけが旅人をかわいそうに思い、「何かしないと」と思った。それで行動した。

 この話を読むクリスチャンはだいたいこの祭司やレビ人を「ダメな奴」と思うし、それは間違っていないけれど、一方で自分自身がどうなのかってことに目を向けない。そして今回のような震災を見て「とりあえず祈っておこう」と言う。でもそれ、祭司やレビ人と同じなんだけど?

  もちろんその「祈りましょう」は基本的に善意なんだろうし、良かれと思ってのことだとは思う。そこは否定しない。でも私たちは自分の信仰に従って行動すべきだし、信仰は行いに現れる。心に信じることが信仰であって必ずしも行動に繋がらないのも事実だけれど、この場合は行動するに値すると私は思う。

 だからと言って現地に行けとか、多額の献金をしろとか、飲料水500リットル以上送れとか、そういう極端な話をしているのではない。自分にできること、どんな些細なことでもいいからできることを考えてみるのが、クリスチャンの良心だと私は信じている。という話。

 今日は方々の教会が日曜礼拝を行うだろうし、きっと震災について祈ると思うけれど、ぜひ、自分たちに何ができるか考えてほしいし、どんなことでもいいから実行してほしいと思う。電話一本だけでも、もらった方の気持ちは全然変わる。これは実体験だからはっきり言えるけれど、電話一本でも何かできるのである(だからと言って電話しろって話ではない。たとえば電話一本だけでも有効だよって話)。

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