時々見かける、クリスチャンの方々のこんな発言。
「今日こそ礼拝に行こうと思っていたけど、○○で行けなかった」
「愛をもって接しようと思うんだけど、またできなかった」
「毎日祈ろうと思うんだけど、どうしても続かない」
なんて真面目な方々なんだろうと思う。
たぶん「クリスチャンとしてこうあるべき」みたいな理想像があるのだと思う。たとえばちゃんと毎週礼拝して、毎日聖書を読っで、祈って、「神との時間」を過ごて、立派なクリスチャンとして振る舞いたい、みたいな感じの。でも何かの事情で思うように実行できなくて、自分を責めたり、葛藤したりしている。牧師に相談したり、いろいろんな信仰書を読んだり、いろいろな集会でいろいろな講師の話を聞いたりして、その葛藤をなんとか解決しようとしている。その過程でいろいろな方法論に触れる。「癒しの宣言」とか「和解の務め」とか、「霊の戦い」とか「聖霊様おはようございます」と毎朝挨拶するとか。それらが奏功した話はあまり聞かないけれど(べつに否定している訳ではない)。
要は、「こうあるべき」と思っていることが「できない」という葛藤。
ちょっと辛辣な言い方をすると、「できない」のは「したくないから」なんだと思う。学生が「勉強しなきゃ」と思うけど結局しない、その理由を考えてみればわかる。勉強が好きな人はそもそも「勉強しなきゃ」とは思わないし、仕事が好きな人は「仕事に行かなきゃ」と葛藤しない。
あ、かと言って勉強好きであれ、とか仕事好きであれ、って話ではない。できないことを責めているのでもない。ただちょっと根本的なことを考えてみてほしいだけ。
たとえば「聖書を1日何章読まなきゃ」と思っていても、基本的に興味がなければ読めない。「祈らなきゃ」と思っていても、それなりに強い動機がない祈れない。祈り続けられない。たとえそれが「聖なる」ことであろうとも。
たとえばレビ記を毎日3章ずつ読みなさいとか言われたら大変だ。はじめはいいかもしれないけど、途中から同じような記述の繰り返しになるから、読んでも読まなくても同じじゃね? って気になってくる。なかなかモチベーションを維持できない。
でもそれは人間の根本的な性質であって、クリスチャンになったから変わるものではない。
やりたいこと、あるいはどうしても避けられないこと(生活のための仕事など)でないと、人間はその行為を続けられない。
たとえば運動不足のサラリーマンがスポーツジムに通い始める。はじめはいろいろ新鮮だから続く。でも次第に足が遠のいていく。っていうのはよく聞く話。続かない理由は何か。意思の弱さか。人間としてダメなのか。いやいや、単に仕事や生活で忙しいからだ。ジムに行くこと自体が「無理している状態」だとしたら、誰だって長くは続けられない。続けられるのは、さほど無理な状態でないからだ。あるいはそれだけ強い動機や、切迫した事情があるからだ。
たとえば前述の「礼拝に行きたいけど行けなかった」人が、同じような事情で仕事や学校を休むかと言うと、休まない。なぜか。仕事を休んだら給料が入らないし、職場での立場が悪くなって困るからだ。学校を休んだら単位がもらえなくて困るからだ。でも教会を休んでも、(通常は)さほど困った事態にはならない。
根本的に、動機の強さが違う。
動機がないとできない、逆に言うと全ての行動には理由がある、というのは、繰り返すけど人間の性質である。だからその部分で悩んだって仕方がない。どうしたって変えられないからだ。ゲームのプレイヤーは、ゲームのルールを変えられないことで悩まない。そのルールの中でいかにプレイするかが肝心だから。
で、冒頭の「礼拝に行けなかった」「愛を持てなかった」「祈れなかった」に戻るけど、そういう人はそもそもの動機から考えることをお勧めする。なぜそうしなければならないと思うの? 牧師や先輩クリスチャンにそう言われるから? 「聖なる」イメージがあるから? でも今までの説明からすると、そういう動機ではできない。
またあるいは「礼拝しないと神様に喜ばれない」「祈らないと神様に喜ばれない」「聖書を読まないと・・・」「奉仕しないと・・・」「献金しないと・・・」という動機かもしれない。でも結果的にできていないとしたら、本当に「神様に喜ばれたい」とは思っていない。それが悪いという話でなくて。
そこにはちょっと勘違いもあるかもしれない。いわゆる「神の愛」についての勘違い。
私たちは礼拝に行かないと神様に愛されないのか。聖書を読んだり祈ったりしないと愛されないのか。沢山奉仕して献金しないと愛されないのか。答えは否。神様は罪人を愛している。そこに条件はない。神様を信じていなくても、沢山罪があっても、どんなに大きな問題があっても、神様は愛している。だから礼拝に行かないことで神の愛を喪失するのではない。自分の行為一つで神の愛がどうにかなると思ったら、それはむしろおこがましい。
また「毎週礼拝に行かなきゃ」「毎日聖書を読まなきゃ」「必死で祈らなきゃ」みたいな「敬虔なクリスチャンっぽいこと」は、イメージである部分が大きい。あるいは「見た目」の部分が大きい。「見た目」の話であれば、現代の熱心なクリスチャンらがこぞって敵視する聖書中の「パリサイ人」や「律法学者」だって、「すごく敬虔そう」だったのだ。彼らだって沢山礼拝して、沢山祈って、聖書を熟知していたのだ。でもキリストの評価はどうだった?
だから、大切なのは動機なんだと思う。
安心してほしいのは、あなたが礼拝に行けなかったから、祈れなかったから、聖書を読めなかったから、という理由で神様はあなたを責めない、ということ。そういうことであなたを責めるのは、ちょっと勘違いした牧師や先輩クリスチャンたちだけだ。神様があなたを愛しているのは変わらない。ちっとも変わらない。
もちろん教会に行くのは良いことだと思うし、聖書も祈りも奉仕も良いことだと思う。それをクリスチャンの義務だと言う人もいるだろう。でもそれが義務「でしかない」としたらあまり意味がないし、本質を捉えきれていないと思う。それより大事なのは私たち自身がそれを少なからず喜んでいる(興味を持っている)ことであって、その喜びも、無理やり自分を喜ばせているというレベルでないことだ。
時々教会でこんなことを言われるかもしれない。
「御霊に仕えているんだから、喜びがありますよね?」
そこで正直あんまり喜べてないなあと思ったら、それは喜びを義務化されているだけ。あるいは強要されているだけ。
ということはわかっていてもらいたい。
私が行っていた教会の教団は、関東のある山の上にキャンプ場を持っていて、夏休みに毎年開催してる。私も中高生キャンプに高2で初めて参加したんだけど、3日間聖書漬け讚美漬け(ちょっとレクリエーションあるけど)。最終日はキャンプファイヤーで証しと神様に対する決心を皆の前で言う。
返信削除「私は、毎年ここで誓う事があります。それは毎日デボーションする事です。しかし、山を降りて地上(笑)に行くと、つい誘惑に負けて一ヶ月位しか続きません。でも、今年こそ…」っていう感じが多い。
私からすれば、一ヶ月続いたってのもスゴい。
最後は先生が「地上(笑)に戻ってもこの素晴らしい山の生活を続けましょう。それが、神様が望んでおられることです。」で終わり。
「なんか疲れた。ここの生活を理想とは出来ないわ。」としか思えなかったな。
神の愛は不変であること、だから私たちの動機が大切なこと。
返信削除どこの牧師のことばよりも説得力を感じました。
祈りも聖書通読も礼拝の皆勤も、やりたいからやっている、好きだからしている、そういうことです。
返信削除誰かに、それが牧師や精神指導者、あるいは上位の信徒であったとしても、何を言われても気にすることはないし、また他人にどうのこうの言われることではないし、そして言う者はおかしい。
主と自分との関係は、それ以上でもそれ以下でもないし、定型にとらわれることもない。つまり人の数だけ信仰はあるということです。
バイブルなんか、読みたくなければ読まなくてもいいし、
祈りもしたくなければ、しなくてもいい。
本当にしたいなら、誰が何を言っても、そうするはずだから。