2016年2月25日木曜日

カルトっぽい教会を離れた後の話・14

 私の教会が解散になる前、「世の終わり」について盛んに語られていた。

 世界は終末に向かっており、もう待ったなしだ、あちこちにその「しるし」が現れている、もうすぐにでも「艱難時代」が訪れる、と牧師はあらゆる礼拝、あらゆる集会で語っていた。内外から訪れるゲストも異口同音に世の終わりとか End time とか語っていく。そのために作られたおどろおどろしい映像の数々も見せられた。だから私たち信徒も使命に燃えて、終末の時代にあって主の御心に敏感に応答していこう、という雰囲気になった。「心を引き締めろ!」と牧師に度々尻を叩かれた。そして携挙のタイミングはいつだ、艱難時代の始まりのサインは何だ、だから今から食糧を備蓄するんだ、農業やって自給自足だ、礼拝も24時間続けなければならない、など、諸々の活動が始まっていった。

 無駄な話を飛ばして結論だけ書くと、最終的には、艱難時代が始まるタイミングが指定された。けれどその日を迎える前に教会は解散となった。牧師は消えた(携挙された訳ではない)。残された私たちは、その指定日に何も起こらないことを確認した。つまり嘘だったことを確認した。

 この出来事はいわゆる「終末詐欺」で括られると思うけれど、キリスト教プロテスタントの一部やイロイロな新興宗教で少なからず行われている(と後から知った)。だから「世の終わりが近い」とか「艱難時代が間近だ」とかいう発言を目にすると、「またか」としか私は思わない。
 と言っても終末が近いという可能性を完全否定するつもりはない。終末詐欺に遭ったからもう終末話は信じない、という極端なスタンスではない。そうでなく、終末の時期は誰にもわからないのだから、近いとか遠いとか言うことはできないでしょ、と言いたいだけだ。

 そういうスタンスで周囲を見回してみると、「今はまさに世の終わりの時だ」みたいなことを真面目に言っている人は案外多い。まあパウロもぺテロも自分たちの時代を「世の終わり」と捉えていたのだから(実際には世の終わりではなかった)、今の人たちがそう捉えるのもべつに問題ない。ただ、艱難時代とか携挙とかのタイミングを大雑把にでも指定してしまうことや、「終末なんだから伝道には福音と終末をセットで語るべきだ」とかいう「終末狂い」な状態になるのは問題だと思う。あるいは終末にお金を持っていても仕方がないから全額下ろして○○を買ってしまえとか、終末に会社勤めしていても意味がないから辞めてしまえとか、もうそういうのは常軌を逸している。信仰的でも何でもない。

 ではここで、私自身の反省を踏まえた、「終末間近説」の問題点を挙げてみる。

問題点1:神が「知らない」と言うことを「知っている」としている

「その日は誰も知らない」と聖書がハッキリ明言していることを、ソドムとゴモラの滅亡を事前に知らされたアブラハムの話とか持ち出して、「いえ、わかるんです(エッヘン)」と言ってしまっている。そういうのは聖書の恣意的解釈、あるいは自己都合的解釈と言う。 聖書が明言している部分を完全無視して、都合のいい箇所だけ引っ張ってきて都合よく解釈する。聖書がハッキリ「こう」と言っている部分を完全否定できるなら、たとえば神は愛でなく、イエスは神の子でなく、最後まで残るのは信仰でも希望でも愛でもなくなってしまう。

問題点2:終末が近いから○○しよう、というその態度

「終末が近いから心を引き締めて祈ろう」
「終末が近いから真剣に礼拝しよう」
「携挙されるように敬虔なクリスチャンになろう」
 というのはどれも、
「テストが近いから勉強しよう」
「部長が帰ってくるから仕事しよう」
「ボーナスの査定があるから今週はオレ仕事本気モードね」
 みたいなことと同じだ。

 聖書が示す終末に関する譬に、旅立つ主人にそれぞれ仕事を割り当てられたしもべたちの話がある。主人の帰りが夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方かわからないけれど、帰った時に寝ているのを見られないようにしなさい、という話。この話に「終末間近説」の人たちを当てはめると、たとえばこうなる。
「主人が帰ってくるのは24時ちょうどだと私たちにはわかっている。だから23時くらいから準備開始だ」
 つまり、絶えず起きていて主人がいつ帰ってきてもいいようにしておこう、という聖書が推奨する態度ではない。
 くわえて、「いつ帰ってくるかわからない」という部分を無視して勝手に自分たちで主人の帰宅時間を決めてしまっている。
 これは聖書に従っている態度とは言えない。

問題点3:どちらかと言うと嫌なこと(艱難時代)を避けたいという動機

 これは「終末間近説」を唱える人たちの中の、「艱難時代の前に携挙がある」という説を信じている人たちの話になる。艱難時代はクリスチャンに対する迫害もあってイロイロ大変でしょうけれど、こうやって終末を信じている「敏感な」私たちは、艱難の前に救い出されます、だから恐れることはありません、みたいなことを彼らは信じている。

 これは聖書解釈によってイロイロだし、自分が信じたいものを信じるという人間の習性もあるから、それぞれが信じたいように信じるんだと思う。艱難前に携挙されてこの世とはバイバイ、あとはあっちでハッピーよ、と信じていたい人はそう信じればいいと思う。それが事実かもしれない。しかしこの「事実かもしれない」と同じ意味、同じ可能性、同じ確率で、事実でないかもしれない。ということは覚えておいた方がいい。

 またこの信仰には、艱難を避けたい、つまり嫌なことや辛いことを避けたいという動機が含まれている。もちろん人間だれしも、嫌なことや辛いことは避けたい。だから当然と言えば当然だけれど、この「嫌なものは嫌だから避けたい」という考え方が創造者である神に対する信仰かどうかと言えば、私は違うと思う。つまりこの場合の彼らの「神」は艱難を避けるための「手段」あるいは「方法」でしかなく、いつも私たちとともにおられる愛なる存在ではない。

 その証拠に、彼らは「携挙されるにふさわしいクリスチャンにならねば」と思っている。そして一生懸命祈ったり聖書を読んだりしている。それはあるライン越えよう、他の人が越えなくても自分だけは越えよう、という試みである。それは取税人と一緒に宮に上ったあのパリサイ人の心境と同じだ。「自分はこれもしました。あれもしました。この罪深い取税人のようでないことを感謝します」

 私ももちろん嫌なことや辛いことは避けたい。でも考え方としては、今が終末であるか、携挙が本当にあるとして自分がどうなるか、艱難時代に入るとしてどんな目に遭うか、というのは、この人生がどうなっていくのかと同じように、「それでも神がともにいて下さる」ということを信じて受け止めたい。神は私たちがどんなでも決して見捨てないし、私たちがたとえ神を憎んだとしても、神は私たちを愛することをやめない。私に何ができてもできなくても、神は態度を変えない。そういう神の存在こそが私たちの希望であるはずだ。
 あるラインを越えて「敬虔」にならないといけない、沢山祈って聖書を読んで献金しなければならない、携挙されるに足る人物にならないといけない、というのは、どちらかと言うと努力とか精神論とかの話だ。それが悪いとは言わないけれど、それを神が本当に願っているかどうか、再考する余地はあると思う。

 ちなみに「携挙されるに足る人物」みたいな表現があるのは、たぶん終末小説『レフトビハインド』なんかの影響もあると思う。つまり本物のクリスチャン、良いクリスチャン、真心から主を愛するクリスチャンでないと携挙してもらえない、失格になってしまう、という「試験方式」という考え方だ。「終末間近説」論者には当たり前になっているその考え方は、あくまで誰かがつくった考え方であって、べつに聖書にそう書かれている訳ではない。「敬虔な者が引き揚げられ、不遜な者は残される」なんてどこにも書かれていない。それにもし敬虔さで引き揚げられるかどうかが決まるとしたら、その敬虔・不敬虔の基準が明示されていないのだから、言うなれば合格点のわからない試験を受させられるようなものだ。合格点は60点かもしれないし、99点かもしれない。100点かもしれない。いずれにしても、一生懸命勉強したところで合格するかどうかわからない。誰がそういう試験を受けたいだろうか。
 終末だ携挙だと息巻く前に、そのへんのことを冷静に考えてもバチは当たらないと私は思う。

 という訳で私の教会は終末思想に取り憑かれてしまった。そして敬虔でなければならない、絶えず目を覚まして祈っていなければならない、決して信仰を妥協してはならない、という字面的には何ら問題ない、でも実際には過酷すぎる労働に、全員が従事させられたのだった。その結果イロイロな破綻をきたし、牧師は消え(繰り返すが携挙されたのではない)、教会は解散となった。あとには何も残らなかった。つまり私たちが信じていた「終末」はこの世のものでなく、自分たちの教会のものだった、という悲しいお話。

2016年2月21日日曜日

クリスチャンの「知恵」と「知恵でないもの」

 クリスチャンの「知恵」と、「知恵でないもの」について考えてみたい。
 と言っても難しい定義をするつもりはなく、単にイロイロなクリスチャンの言動から「もうちょっと考えるべきでは」と思ったことを挙げつつ、クリスチャン的「知恵」って何だろうということを模索してみたい。という試み。

・あるセミナーにて

  チャーチスクールの生徒が集まるセミナーがあって、私もそこにいた。分科会で、対象は小学校高学年。講師はある若手牧師(いわゆる2世牧師)だった。
 牧師がにこやかに登壇し、元気よく挨拶して、開口一番、「みんな、みんなはもう生きる意味ってわかってるよね!」
 確か、「クリスチャンとしていかに生きるべきか」みたいなテーマだったと思う。小学生にはちと重そうなテーマだったけれど、誰がどう決めたテーマなのかはわからない。
 という訳でセミナーが始まった。「クリスチャンであるみんなならもうわかっていることだから、いちいち説明するまでもないけど、僕たちは神様の為に生きてるんだよね!」
 うん、それで? と続きを待っていると、「それがこの分科会の結論なんだけど、これだともう話が終わっちゃうよね」
 そしてワハハハ・・・という笑い声。分科会は確か45分くらいだったから、もちろんその後も話は続いたんだけど、正直言って何も覚えていない。笑い話とか体験談とか、どうでもいい話が延々と続いたからだ。最後まで。
 結局、「クリスチャンは神様のために生きる」以外のメッセージは何もなかった。
 たぶんその若手牧師、ロクに準備しないで来たんだと思う。小学生相手だから笑わせておけばいいと思ったかどうかわからないけれど、あれだと何のセミナーだかわからない。肩透かしを食らった感の小学生も、少なくなかったと思う。

 「クリスチャンは神様のために生きる」というのは、まあその通りと言うか、全然間違っていないと思うけれど、その一文で済ませられるほど、人生は簡単ではないと思う。「神様のために生きてます!」といつも笑っていられれば良いけれど、仕事とか人間関係とか家族とかお金とか教会内の揉め事とか、日々イロイロあるし、どれも簡単ではない。むしろ大いに悩まされる。
 でもそれはちょっと考えればわかることだ。「神様のために生きてます。以上!」で話が終わってしまうのは、明らかに何も考えてない。クリスチャン的「知恵」とはほど遠い。

 それに「神様のために生きる」ってザックリ過ぎるでしょう。その字面は理解できるとして、小学生がどこまでその中身をイメージしているか?  を考えたら、もうちょっと話すべきことがあるでしょうに。

・ある礼拝にて

 ある教会の日曜礼拝に出席して、滞りなく終わった。そこは「熱い」教会で、終わると皆で互いにハグしたり握手したり祈り合ったりする。私は新来者だったのでその渦中にはいなかったけれど、帰り際、そこの若手牧師に握手を求められた。笑顔で応じた私に、若手牧師。「今日はどのような経緯で私どもの教会へ?」
 私より少し若いかな、という見た目の牧師だった。カッコいい革ジャンで、満面笑みである。私はちょっと意地悪な気持ちになって言った。「実は自分の教会が解散してしまいまして」
 革ジャン牧師は「そーですかー。それは大変でしたねー」と軽い口調で笑顔のまま言う。そして、「何か、お祈りすることはありますか?」とやはり笑顔のまま尋ねてくる。「大丈夫です」と私は言ってその教会を出た。以来一度も行っていない。

・ある「お勧め」

  私の記事や発言を見たあるクリスチャンからこんな言葉をいただいた。「神を信じるとは? 信仰とは? 原点に戻って今一度お考えになることをお勧めします」
 発言の意図はよくわからないけれど、まあ私の発言が気に入らなかったのは間違いない。べつに私の発言を気に入ってもらう必要はないし、大切なのはそこではない。大切なのは私の発言がどういうものか、である。そこに何か間違いがあると思うなら、「何が」「どうように」間違っているのか、ハッキリと指摘するべきだ。それなら私も応えたい。単に「考え直せ」では何も伝わらない。
 ちなみにその人物に言わせると私は怒っていることになっていて、全然怒っていなかったんだけど、何だかなあ。

 ちなみに私の記事や発言を見て「うるせー」とか「こんなの小物」とか「根性無し」とか小学生みたいな反応をする輩(もしかしたら現役小学生かもしれない)もいて、べつに小物でも根性無しでも何でもいいんだけれど、答えは同じ。「何が」「どうように」間違っているのか指摘してみたらどうだろう。できなくて悔しいのかな。まあ無礼な人には応えないけど。

・とりあえず結論

 結局イロイロな「浅はかな発言」を挙げただけだけれど、まあこういうのは「知恵」とは言わない。では「知恵」とは何だろうか。少なくとも簡単に答えを出さないで考えてみることが「知恵」に繋がるだろうとは思う。

2016年2月16日火曜日

「神の視点」にまつわるあれこれ

 少し前にtwitterで連ツイした内容なのだけれど、大切なことだと思うので記事にまとめてみたい。

 発端は、「問題が山積みでも神様を見上げましょう。神の視点で問題を見ましょう」という内容の某クリスチャンのツィート。
 これは一見信仰的で、気の利いた助言に思える。けれど2つの点で問題があると私は思った。
 1つは「神の視点」という言葉。もう1つは、この台詞を語っている「態度」である。

 そもそも「神の視点」で物事を見るとはどういうことなのか。神の御心を完全に把握していて、「うん、この試練にはこういう意味がある。今後はこうなる。将来的にはこうなる。だから大丈夫だ」みたいなことを明確に言えるのだろうか。そんなことは誰にも言えない。ということは人間が「神の視点」で物事を見るのは不可能なのだ。

 時々「私には御心が完全に示されている」みたいな寝言を言う人がいるけれど、いざとなると「この御心はまだわからない」とか「全てがわかる訳ではない」とか矛盾したことを平気で言う輩だから気にしない方がいい。

 だから「神の視点」で見ようっていう発言には、傲慢さか、あるいは軽率さが含まれている。知恵があると自称する人は使わない方がいい。
 もちろんこの発言の意図がわからないのではない。「神の視点」で見ようというのは、要するに「問題全体を俯瞰してみよう」とか、「視点を変えて見てみよう」とか、そういう意味なのだと思う。それをちょっとカッコつけて「神の視点」と言ってみただけだろう。それならそれで「視点を変えよう」の方が誤解がないと思うけれど。

 もう1つの問題点はこの発言の裏にある「態度」だ。たとえ視点を変えたって、問題は解決しないのである。「神の視点」を持ち出せば信仰的になる気がするかもしれないけれど、要は現実逃避とさほど変わらない。なぜなら、視野を広げれば問題が小さく見える、というのは心に余裕を持つという意味で必要なことだけれど、それに終始するのは問題を放置することになるからだ。そこに信仰ウンヌンを持ってくるのはちょっと違うと思う。 祈るために船を漕ぐ手を休めたら、船はどこにも進まない。 

 これが自分自身にあてた言葉なら特に問題とは思わない。けれど基本的に他人に向けて発せられた言葉なので、現実逃避を推奨しているようでいただけない。 単に「視点を変えよう」という助言だとしても、やっぱりいただけない。なぜなら本人は視点を変えたり何かを変えたりで散々努力したけれど解決しなかったから、苦しんでいるのだ。今更「視点を変えよう」とか言われても苦笑するだけだ。

 またたとえ「御心」がハッキリと完全に示されていて、「この苦しみには○○という意味がある。乗り越えれば××が待っている」とわかったとしても、だからその苦しみが半減するとか消失するとかいうことはない。苦しいのは苦しい。本人にとって一番問題なのはその「苦しい」という体験であって、苦しいうちは、その意味とか将来とか全然関係ない。

 たとえばマラソンで30分走るのは苦しいことだ。走ったことで得られる様々なメリット、たとえば運動後の爽快感とか心地いい疲労感とか、持久力や体力の向上とか、そういうものが得られるとわかっていても、走るのが苦しいのは変わらない。走っている最中に思うのは、早くやめたいということだ。

 高い山に登れば人や家が小さく見えるように、「神の視点」で見れば私たちの悩みもちっぽけなものです・・・というのはよく聞くフレーズだけど、それは単に視野を広げたとか、視点を変えたとかいう話でしかない。それが「神の視点」なのではない。あくまで人間の側の、「気持ちの持ちよう」の話だ。

 そういう「良さげな話」を引用するのは、誰にでもできる。でも本当に大切なのは、その考え方なり方法なりに本当に価値があるのか、問題はないのか、別の考え方はないのか、あの人に言ったらどう受け取られるのか、失礼ではないか、等ちゃんと考えることだ。 それをしないで簡単に口から出してしまうのは、単なる思考停止だと私は思う。

2016年2月13日土曜日

カルトっぽい教会を離れた後の話・13

 教会が解散になってイロイロ見たり聞いたり考えたりした結果、私は一つ大きな勘違いをしていたことに気づいた。「祝福」に関する勘違いである。

 よくクリスチャンどうしの挨拶に「祝福がありますように」というのがあって、ほとんど定型文のようになっているけれど、私の教会で「祝福」を語る時、それはマジで真剣に本気で「祝福されなければならない」という意味を含んでいた。つまりそこは教会であり、自分たちは「神の民」であるのだから、祝福されて当然でしょう? 祝福されない理由などありますか? みたいなニュアンスがあった。思えばそれは「繁栄の神学」(だからそんなの神学じゃないんだってば)の影響が強かったためだろう。

信仰的な行い=祝福される
不信仰な行い=祝福されない

 という単純な図式があった。
 それで、ではどうすれば祝福されるのか? という話になる。そこはもう「信仰の行い」である。毎週ちゃんと礼拝しなさい。礼拝以外の集会にも参加しなさい。何か奉仕を担当しなさい。よく献金しなさい(それはあなたの為だから・・・)。よく祈りなさい。よく聖書を読みなさい。毎日「デボーション」しなさい。よく伝道しなさい(未信者を教会に連れてきなさい)。牧師を尊敬し、たとえ意見が合わなくても従いなさい(それもあなたの為だから・・・)。

 という訳で様々な行いが信徒に課せられるのだった。それは全て「クリスチャンとして当然の行い」であり、それらをしていれば当然「祝福される」とされていた。それを拒否するという選択肢はなかった。拒否するなら、なんでクリスチャンやってるんですか? なんで教会に来るんですか? という話になる。

 そこでは「祝福されない」状態でいることは、イコール不信仰であり、何か罪や問題があるのではないかと勘繰られてしまう。祝福されることがベーシックなのだから当然だろう。そして牧師や役員や長老やリーダーといった人たちは「信仰に進んだ者」であり、「祝福されない」なんてことがあるはずがない。そうでないと教会の根幹が揺らいでしまう。

 でも実際問題として、そんな簡単に祝福が舞い込んでくるなんてことはない。私の教会は依然として貧しかったし、何年経っても人は増えなかったし、目に見えて何かが発展していくこともなかった。じゃあ祝福されていない自分たちは不信仰なのか? いやいやあの「牧師先生様」がいるのだから不信仰なんてありえない。礼拝も盛り上がってるし、賛美も祈りも熱いし、泣いたり笑ったりの「生きた」教会なのだから、必ず祝福されるはずだ・・・。

 そこに矛盾があった。自分たちは祝福されるべき存在なのに、実際には何も起こらない。なぜか? そこで導き出されるのは、「自分たち以外に原因がある」という考え方だ。自分たちは悪くない。むしろ受けるべき祝福を「まだ」もらえていない。これは不当だ、となる。そして大まかに言って、次の二つに原因を絞る。

・悪魔が祝福を妨げている
・まだ神の時でない(今は待たなければならない)

  という訳で私たちは悪魔との戦いに乗り出すことになった。「霊の戦い」が盛んに語られるようになり、実際に行われ、夜な夜な神社仏閣とかの「霊的重要スポット」に足を運ぶようになった。そこで悪魔に向かって絶叫し、手を振り回して「出ていけ」と命令し、勝利を宣言した。そしてなにか勝った気になって、意気揚々と帰るのだった。

 しかしいくら「霊の戦い」をし、悪魔たちに「打ち勝って」も、実際的には何も起こらない。気分は勝利に満ちているけれど、気分だけの話であって、お金もないし人も来ない。何かが発展することもない。人が増えたとしても、それはどこかで噂を聞きつけてきた「霊的クリスチャン」たちばかりで、新来者など一人もいない。

 そこで登場するのが第二の原因である。
「まだ神の時でない」
 だから私たちは忍耐して、涙して、耐えなければならない。この貧しさに。この忙しさに(キリストの弟子たちも忙しかったでしょう?)。この何も起こらない雰囲気に。そして本当に涙して、「神様、まだですか」と嘆くのである。すごく敬虔っぽく見える。実際には互いの傷を舐め合ってるだけなんだけど。

 だから結果的に、私たちは「祝福」されるのをひたすら「待つ」ことになる。ずっとずっと待つのである。一年でも二年でも、いや十年でも二十年でも。忍耐できず待てないのは不信仰であって、約束のものを得ることができない態度だ、と言われる。だから忍耐するしかない。そして40日断食とか、ダビデの幕屋の礼拝とか、和解の務めとか、イロイロ新しい方法論が出る度に「今度こそ」と思うけれど、期待に反して何も起こらない。

 という訳で、いつ来るともわからない何かを私たちはただ待ち続けていた。そして最終的に私たちに訪れたのは、教会の解散というまさかの事態だったのは今まで書いてきた通り。

 教会という場において、神の名によって実現すると言われてきたことが、ことごとく起こらなかった。これをどう捉えたらいいだろうか。その「祝福の約束」に、神は関与していたのだろうか。神が約束を違えたのだろうか。しかし聖書を読むと、神が約束を違えたという記述はどこにもないのだけれど。また約束を簡単に違える方だとしたら、その「神」は信じるに値しないと思うのだけれど。

 当時の私たちの状態をたとえるなら、目の前にニンジンをぶらさげられた馬が延々と走り続けるようなものだった。いつまで経ってもニンジンにありつくことはできない。いつかニンジンを食べることができるという幻想だけ抱いて、虚しく走り続けるのだ。

 そしていつか馬は気づく。素晴らしい道を走っていたはずが、何もない道だったことに。沢山の成果をあげてきたはずが、何一つ成し遂げていなかったことに。そしていつか食べられるはずだったニンジンが、影も形もない、ただの幻だったことに。

「祝福」について私が気づいたことの一つは、信仰的だから必ず祝福されるとか、不信仰だから必ず祝福されないとか、そういうルールはないということだ。どんなに信仰的で敬虔で霊的な人間にも、解決できない問題や葛藤はある。お金のことや仕事のこと、人間関係のことなどで誰もがいつも悩んでいる。順風な時ばかりではない。むしろ逆風の方が多いかもしれない。だから「こうすれば必ず祝福される」という論法は、実は信仰的でも宗教的でもなく、巷に溢れる詐欺商法の手口とほとんど変わらない。

 逆に「祝福されなさそうな」人たちにも神の祝福はある。たとえば今日も地球は回っているし、大気組成は人間の生存に適している。定期的に雨も降る。罪深いと思われる人たちにも、そんなふうに今日も沢山の恵みが注がれている。

 それに考えてみれば、救われる前の私たちだって十分罪深かったはずだし、今だって罪はある。その私たちに救いが与えられたのは、祝福に値しない者に一方的に与えられた恵みに他ならない。だから「祝福」とは神が決めるものであって、私たち人間の側が「自分は祝福されるはず」とか「あいつは祝福されない」とか決めつけていいものではない。

 それは考えれば当たり前なことなのだけれど、私たちはいつの間にか、そういう大事なことを見失ってしまってしまう。
 それに気づけたことを考えると、私の教会の解散は、ある意味で「祝福」だったのかもしれない、と私は今にして思う。

2016年2月9日火曜日

クリスチャンを浸食する日本的「呪い」

 珍しく日本のホラー映画『残穢-住んではいけない部屋-』を鑑賞した。



 いかにも日本的な「お化け」系怪談だった。過去の「怨念」とか「祟り」とか「呪い」とかが、土地や建物や人間を介して延々と連鎖している、というコンセプト。派手ではないがジワジワくる形の恐怖である。けっこう尾を引くかもしれない。

 ところでこういう「祟り」とか「呪い」とかの話とは縁遠いはずのキリスト教世界が、昨今は意外と繋がっているんじゃないかと私は思った。それについて、ちょっと考えてみたい。

 まずは映画『残穢-住んではいけない部屋-』(以下『残穢』)のあらすじを少し(ネタバレするので未見の方は注意)。

■『残穢』の簡単なあらすじ

 主人公は女性怪談作家と女子大生の2人。
 女子大生の引っ越し先のマンションで、夜な夜な奇妙な「音」がする。誰かがいるようだけれど誰もいない。怪奇現象ではないかと考えて、女子大生は怪談作家に相談する。
 2人で調査を進めると、その土地の暗い過去が、次々と判明していく。

・マンションが建つ前の家屋の住人は、「空間」を異常に恐れて家中にゴミを敷き詰め、その中で死んでいた。
・その前の家屋では奥さんが「赤ん坊の泣き声」に精神を犯され、首つり自殺をしていた。
・その前の家屋では女が密に妊娠と出産を繰り返しており、生まれた児をすぐに殺しては、軒下に埋めていた。彼女は「燃やせ、殺せ」という声を聞いていた。
・その前の家屋(大正時代)では三男が精神障害で座敷牢に閉じ込められていた。彼は「燃やせ、殺せ」といつも呟いていた。それは九州から継母が嫁いできてからのことだった。
・その継母の実家は九州で炭鉱を経営していたが、経営難で父親が一家もろとも無理心中したという過去があった。父親は「燃やせ、殺せ」という声を聞いていた。
・ その炭鉱では過去に火災事故があり、大勢の作業員が、地下で生きながら焼かれて死んでいた。

  という過去の「穢れ」が、土地や人を介して現代まで連鎖している、という事実を2人は突きとめる。そこで調査は終了となるが、すでに2人にも、その関係者にも、「穢れ」が伝染している。ということがほのめかされて終わり。

■日本の怪談らしい理不尽さ

 もちろん怖かったのだけれど、どうもスッキリしない後味であった。もともと日本のホラーはそういうのが多いと思うけれど、とにかく理不尽さが目立つ。たとえば本作の肝は「話しても聞いても祟られる」というルールにあるのだけれど、あまり関わりのなかった編集部の社員がなぜか呪い殺された(?)かと思えば、どっぷり関わっていた主人公らには実害がない。同じマンションに住んでいる住人にも悲劇が起こったり起こらなかったりで、そのルールがよくわからない。もしかしたら原作では説明されているのかもしれないけれど、鑑賞中は「え、なんで」がけっこうあった。
 まあ、そこがまた恐怖であり、得体の知れない不気味さを醸し出しているのかもしれないけれど。

 さてこの『残穢』の世界が現実にあったら堪らないのだけれど、要は「呪いの連鎖」みたいなものだ私は理解した。
 理不尽に死ななければならなかった人たちの「怨念」みたいなものがその土地(あるいは人)に残り、「祟り」を起こす。それで殺された人の「怨念」がまた残って、形を変えて「祟り」を起こす。そんなことが延々と繰り返される。

 けれど現実的に考えて、もし理不尽な死が「怨念」となって「祟り」を起こすとしたら、この世は祟りだらけになっていると思うし、人類なんてとっくに絶滅していると思う。果たされない未練なんてどこにでも沢山ある訳で、それら一つ一つがいちいち呪いとなって誰かを殺すとしたら、世界はどこもかしこもホラーだ。『残穢』が現実なら、日本人はおそらく全員この祟りにやられてしまうだろう。

 とは言いつつ、もちろんこれはフィクションでありエンターテイメントであるので、そんな理屈は無視して単純に恐怖を楽しめばいいと思う。べつに観たから呪われるとか、クリスチャンの品位(なにそれ)に欠けるとか、そんなことは全然ない。こういう娯楽がダメだと言うなら(そう言うクリスチャンはいる)、賛美礼拝という名のカラオケ大会だって娯楽だからダメだろう。

 けれどこういう「祟り」や「呪い」の類をフィクションでなく、あくまで現実の話として捉えている人たちがいて、ちょっと笑えない。それはクリスチャンの一部の人たちだ。


■聖書無視の「呪い」が教会で語られている

 あくまで一部の教会だけの話だと思うけれど、たとえば「家系の呪い」とか、「土地の呪い」とか、「悪魔崇拝に関する呪い(コックリさん等)」とかが、まことしやかに語られている。
 たとえば病気が長引いている信徒をつかまえて、その病気は先祖代々の罪が影響しているから、主の御名によって断ち切らなければダメだ、とか(家系の呪い)。
 あるいはパチンコ屋が密集している地域を指して、ギャンブルの霊がついているから断ち切らなければダメだ、とか(土地の呪い)。
 またあるいは、子供の頃に興味半分でやったコックリさんのせいで、心に悪魔の足場(なにそれ)ができているから、断ち切らなければならない、とか(悪魔崇拝に関する呪い)。

 いわゆる「断ち切り」については何度か書いているけれど、つまり私たちはイロイロなよくわからない因果に縛られていて、そこから目に見えない悪い影響を受けているから、一つ一つを「示してもらって」、「断ち切り」をしないと自由になれない、というような話だ。

 それで家系の呪いを断ち切り、土地の呪いを断ち切り、悪魔崇拝を断ち切り、他にもイロイロ断ち切るんだけど、いっこうに問題が解決されない。それで牧師に相談すると、「まだ示されていない罪の呪いがある」ってことになり、自分の黒歴史を洗いざらい白状させられたり、親の失態や家族親族の秘密を暴露させられたりする。それでも解決しないと、今度は飼っている犬に「呪い」があるんじゃないかとか、住んでいる家に何かあるんじゃないかとか(ここで『残穢』につながる)、もう何でもアリな話になってしまう。いろんな悪魔やいろんな呪いが登場し、もはや解決不能なくらいそれらが複雑に入り組んでいるように思える。もう絶望的。
 そして最終的には、「今はまだ神の時ではない。今は忍耐の時だ」とかいう話になって、え、結局待てってことですか? 結局待つなら、なんで今までこんなイロイロ断ち切ってきたんですか? という始末。

■そもそも聖書は「呪い」についてどう言っているのか

「断ち切り」信奉者に言わせると、たとえば最初の人間であるアダムが罪を犯したことで全人類に「罪の性質」が入ったのだから、先祖のイロイロな「罪の呪い」が子孫代々引き継がれるのは当然だ、となる。あるいはカインに殺されたアベルの血がその土地から主に叫んだという記述「だけ」引用して、「土地につく呪い」があると主張する。

 けれど私たちは、アダムから個別の「罪の呪い」を引き継いでいる訳ではない。彼が生きている間に犯しただろうすべての罪を、個別に「呪い」として引き継いでいるのではない。もしすべての罪を個別に引き継ぐとしたら、私たちは何代か前の先祖たちからの呪いだけでなく、アダムから全代にわたる、すべての呪いを一手に引き継いでいることになってしまう。すると私たちは、たとえば遠い先祖が犯しただろう殺人によって呪われており、同様に強盗によって呪われており、同様に姦淫によって呪われており、その他の大小様々な、ありとあらゆる罪からくる呪いによって呪われている。呪いは一つ一つ断ち切らなければならない、という彼らの主張に従うなら、それらすべての呪いを全部個別に調べあげ、指定して、全部個別に断ち切らなければならなくなる。『残穢』の世界みたいである。その生き方は未来に向かうものでなく、私たちを過去に閉じ込める。過去の○○の罪があるから断ち切らないといけない、でもその原因になった××も断ち切らないといけない、でもまたその原因となった罪があるはずだから、何とかして過去を調べないといけない、みたいな話になってしまう。

 彼らはクリスチャンである。キリストを心に信じて救われているはずである。けれどどうも、キリストを信じて心に受け入れただけでは救われない(まだ呪われている)、と信じているようだ。その考え方が聖書から完全に逸脱していることに、気付いていない。

 聖書が言っているのは、「子はその親の罪によって裁かれない」というシンプルな事実だ。これだけでも、「家系の呪い」は完全に否定される。また「キリストの十字架は全ての罪を清算した」訳で、個別の罪をあれやこれやと挙げ連ねて一つ一つ「断ち切る」必要なんてない。もしそれが必要だとしたら、私たちは罪を犯さない日なんてないのだから、毎日毎日、沢山の時間を「断ち切り」に費やさなければならなくなる。それは旧約時代の、いけにえを捧げる行為にも似ている。捧げても捧げても終わらない。新約の約束はどこに行ってしまったのだろうか。

■『残穢』の世界に生きるクリスチャン

 彼らはおそらく『残穢』みたいな映画を「汚れている」とか「悪魔はいるけどお化けとかいない」とか「観ると悪魔の影響を受けてしまう」とか言うだろう。けれどそう言う彼らの信仰そのものが『残穢』の体現みたいなものだ。昨年は「油事件」が一時期話題になったけれど、あれだって「敵の要塞に油を注いできよめる」みたいな理屈な訳で、「呪い」の「断ち切り」とそう変わらない。学研『ムー』の妄想話を「一理ある」とか言っちゃう人とか、ニューヨークの「自由の女神」像に立ち向かっちゃった人とかもいる始末で、もう信仰的とか熱心とかいうレベルではない。常軌を逸している。
 でも世間の注目を集めやすいのは、普通の真面目なクリスチャンでなく、こういう電波系の連中である。そして彼らの変なイメージが、そのまま日本のクリスチャン全体のイメージにもなりかねない。本当にどうにかならないだろうか。

 映画『残穢』を観て、そんなことをツラツラと考えてみた。

2016年2月6日土曜日

【体験談】・牧師の信徒差別・守秘義務違反・被害妄想

 今回はいただいた体験談2つを紹介したい。できるだけ原文のまま掲載するけれど、一部編集させていただいた。当然ながら内容には触れていない。

■田中さんの体験

 私は数年前にできた某プロテスタントの教会に通っていました。
 けれどそこの牧師の無神経な言葉にいっぱい傷つけられて来ました。
 私は重大な悩みを抱えていて話を聞いてほしいのに、いつも「軽い」の一言で終わらせられてしまいます。牧師はお気に入りの信徒とばかり話しています。重い相談には乗りたくなくて、楽しい交わり(雑談)をしたいだけなんだと思います。きっと面倒なことはしたくないのです。

 私は学生をしているのですが、色々辛くて、いつも教会で愚痴を言っていました。すると先輩信徒のAさんがこうアドバイスしてくれました。
「そんなに辛いなら学校やめるのも選択の一つだね」
 すると近くにいた牧師もそれに同意して、「Aさんの言う通り。教会に来れないほど辛いならその学校は辞めるべき」と言いました。
 教会に来ることと学校を辞めることは関係ないはずなのに、なんだか「学校を辞めて教会に来い」と言われているようでした。でも学校を辞めるのは人生計画が狂うことで、教会のためにそこまで出来ないと思いました。

 決定的にその教会に行かなくなったのは、学校の試験前の大変な時に、教会に来いと言われたからです。(勉強があるので)断ったら、「教会で祝福されたらかえって成績が良くなった、という人をたくさん知ってる。それがクリスチャンだ」と言われました。もうついていけないと思いました。親しい信徒に相談すると、他にもひどい話があるのがわかりました。たとえば家族を介護しているから教会になかなか行けないという人に対して、家族にはオムツを履かせておけばいい、あなたは教会に来なさい、と言ったそうです。

 それで私が教会に行かなくなると、牧師は私に個人的にメールを送ってきて、「相談にいつでも乗るよ」と書いてきました。教会に行かなくなってからそんなこと言われても、と思いました。なぜなら相談に乗ってほしくて何度も話しかけたのに、牧師は別の人との「交わり」に夢中で、私に時間を割いてくれたことなどなかったからです。

 そのくせ、牧師は公には綺麗ごとばかり言うのです。
「人間関係がこじれることが教会の中でもありますが、教会は『主に対して個々が応答する場』であって、主が行われていることに人間的要素を混入させて、清流のような聖さを混濁させてはいけません」

 確かにそうかもしれません。でも私は現実として教会の人の言葉に傷ついてきたのです。

■はるさんの体験

 私の通っていた教会は単立でした。
 牧師は頑固で人の意見を聞かず、自分の意見を押し通す人でした。

 私は幼い頃の虐待が原因でパニック障害と摂食障害を患っています。その事も言いたくは無かったのですが、言わないと悪霊の足場になると言われ、仕方なく話しました。しかし話したら、「自分だけが辛いわけじゃないからね、みんな辛いから」と言われ、何だかなと思いつつ疑問を持たずに通っていました。
 心療内科に通っていると話すと、医者は駄目と言われ、服用している薬は飲むなと言われました。そして摂食障害になる人の気が知れないとも言われました。
 挙句の果てには、心療内科に通っていることを皆にバラされました。そしてある信徒から「心療内科に通ったりなんかしたら頭がおかしくなるだけだ」と2時間に渡って叱責されました。
 それから体調を崩し、不眠症になり、摂食障害がより酷くなりました。
 人を責めたてるのが教会なんだろうか、と今も疑問に思います。

 また牧師は日頃から、自分の意見の賛同者でなければ他の教会に行けばいい、とよく言っていました。
 教会を出ていった人は牧師や信徒を見ているからいけない、神様だけ見ていたら教会に来れるはずだ、と言いました。
 献金額が多い信徒、牧師を褒める信徒を贔屓にしていました。

 他にもたくさんのことを言っていました。
 バチカンは悪の巣窟だ。ローマ法王はNWOを企んでいる。
 世界はイルミナティとフリーメーソンが操る世界だ。
 日本は駄目な国だ、韓国やアメリカは素晴らしい。
 レディ・ガガは悪魔崇拝者だ。
 音楽や映画は悪霊の支配下にあり、サブリミナルで操られてしまう。
 焼香を拒否するのは当然だ。
 ハリウッドは悪魔崇拝者の集まりだ。
 医者より祈りだ。
 日本は気象兵器で狙われている。東日本大震災は人工地震だった。・・・

 テレビも悪だと言っていて、牧師の家にはテレビはありませんでした。
 いろんな事がおかしいと気づき、最近は教会を休んでいます。体調が良くなったら転会したいと言おうと思っています。

■感想を少し

 前半の田中さんの体験は、牧師による差別の典型的なものだと思う。こういう差別は、残念ながら少なくない。似たような話をイロイロ聞いてきたし、実際そういう現場も見てきた。けっこうあからさまな差別を平気でする牧師もいる。

 もちろん牧師も人間である以上、相性の合わない信徒の存在は避けられない。けれどそこには最低限のモラルがあるはずで、可能なかぎり公平・平等に配慮するのが、対人援助職としてあるべき姿だ。つまり個人的感情がどうであれ、仕事として割り切って接するのが「プロ」なのである。
 逆に言うと、苦手な相手にどう接するか、という点にその人の本質が現れる。だから差別を平気でする人間はその程度の人格しか持ち合わせていないということだ。たとえ「霊的」であったとしても、何かの能力に秀でていたとしても、キリストの愛を実践できる人間ではない。

 後半のはるさんの体験談に出てくる牧師は、明らかに守秘義務違反をしているうえ、精神疾患かと疑うくらいの被害妄想を持っている。

 もちろん牧師職には明文化された守秘義務はないけれど、対人援助を基本とする以上、それに準じた扱いをされるのが妥当だと私は思う。
 それに、守秘義務違反ウンヌンを言う以前に、相手が愛すべき信徒であるなら、その秘密を簡単に漏らすことなどできないはずだ。相手を愛していればいるほど、その秘密の取り扱いには注意が向くのではないだろうか。だからそういう注意が全然向かないということは、相手を全然愛していないということなんだと私は思う。

 またこの人の被害妄想には本当にすごいの一言である。イルミナティとかフリーメーソンとか出てくると、私の感覚としてはすでに「末期」である。たぶん自分でも何を言っているのかわかっていないのであろう。わかっていて言っているとしたら、そっちの方が深刻だけれど。

2016年2月4日木曜日

カルトっぽい教会を離れた後の話・12

 私の教会では、とかく「成長」が強調されていた。私たちがクリスチャンとして成長するのは「主の御心」だから、私たちは成長しなければならない、成長できないのはダメだ、信徒の成長は教会の成長だ、みたいなことを、いつも耳タコなくらい言われていた。

 だから「弟子訓練」が積極的に取り入れられていた。信徒は全員何らかの「弟子」になっていて、奉仕は何でもかんでも「訓練」だった。
 
 ちなみにうちの教会の場合、奉仕は「信徒が教会に仕える気持ちで(つまり好意で)するもの」などでなく、「信徒として当然の使命」であった。だから奉仕をして感謝されるなんてことは基本的になく(べつに感謝されたくて奉仕する訳でもないけれど)、何らかの奉仕を担っているのが当然だった。何の奉仕もない信徒、というのは基本的にあり得ない。いたとしたらすごく居づらいと思う。

 たとえば礼拝の司会者は、いわゆる「司会者の召し」を受けていて、だから司会をするのは当然で、しかもそれは「訓練」なので、イロイロ厳しくされる。講壇でしゃべるセリフから服装から態度から、表情から立ち居振る舞いから賛美の選曲から、実に細かく牧師からチェックされていた。リハーサルの段階からイロイロ言われ、礼拝中は牧師にジッと見られ、そして礼拝後は牧師からあれがダメだった、これもダメだった、次からああしろ、こうしろ、と「反省会」を持たせられる。それが毎週のように続く。牧師に言わせればそれは「必要な訓練」であり、「成長のための過程」であった。

 そんな風に、信徒はほとんど例外なく「弟子」になっていて、多少の差はあれ、牧師やリーダーたちから厳しく「訓練」されていた。パソコンで教会のコマーシャル映像なんかを作るチームは、徹夜で作業したのにダメ出しされて怒られて(なんで怒られなきゃならなかったんだろう)、もう一晩徹夜する、なんてザラだった。
 すべては「成長」のための「訓練」だった。牧師に言わせれば。

 でもその甲斐あってか、司会は結婚式の進行役みたいに卒がなく、受付はよく気が利き、楽器の演奏も照明も音響も「礼拝の演出」にバッチリ合っていた。よくできた学芸会とか、よく練習された音楽発表会みたいな感じだった。

 また奉仕以外にもイロイロあって、たとえば毎週のバイブルスタディ―とか、教会の(礼拝以外の)集会やイベントとかも、ほとんど強制参加だった。欠席したら後から何を言われるかわからない。それも「成長」のための「訓練」だった。

・クリスチャンとしての成長とは

 クリスチャンならではの成長、クリスチャンだからこその成長、クリスチャンに特有の成長、とは何だろうか。牧師があそこまでこだわった「成長」とは、いったい何だったのだろうか。

 一般的な意味の「成長」にも、いくつか種類があるだろう。簡単にまとめてみると、次のようになると思う。

■身体的成長
 身長が伸びたり、体が大人として機能するようになったり、思考力が付いたり、という種類の成長。これは放っておいても勝手に成長していく。

■身体能力的成長
 これはたとえば自転車の練習をして乗れるようになるみたいな、いわゆるスキルとしての成長。いろいろな種類があるけれど、反復練習とか学習とかで、次第に成長していく。勉強して成績が上がるのも、ここに分類されるだろう。

■精神的成長
 いわゆる精神力みたいなもの。大変な事態に直面して心が折れそうになったけれど、次に同じような事態に遭遇したときはそこまで折れそうにはならなかった、みたいなことがあると思う。精神の鍛練みたいなことだろうか。
 ただこれは、ストレス耐性を無理矢理身に付けさせられたみたいな側面もあると思う。つまり大きなストレスに耐えるため、心が変に歪んでしまった、みたいな負の側面もある。

■人格的成長
 これは精神的成長と明確に分けるのが難しいかもしれないけれど、たとえば昔に比べて寛容になったとか、人を許せるようになったとか、待つことができるようになったとか、そういう人格面にみられる成長。

■霊的成長(?)
 これがたぶん「クリスチャンとしての成長」に分類される種類の成長だと思うけれど、何がどうなったら「霊が成長した」と言えるのか、イマイチ曖昧だろうと思う。たとえば「どれだけ神の声を聞けるようになったかで霊的成長を計る」という意見もあるけれど、それが間違いなく神の声であると、どうやって判定するのか。

 さて、私の牧師が耳タコなくらい言い続けた「成長」は、この「霊的成長」のことだった。
 であるなら、司会者が司会においてスキルアップすることや、映像制作者が映像製作においてスキルアップすることが、どう「霊的成長」につながるのだろうか。司会の訓練をすれば霊が成長するのだろうか。だとしたら結婚式のプロの司会者とか、ニュースのキャスターとか、紅白歌合戦の司会者とかは霊的に成長しているのだろうか。映像制作者はものすごい霊的成熟者ばかりなのだろうか。そういう話は聞いたことがないけれど。

 べつに「クリスチャンとしての成長」を否定する気はない。たとえば聖書を通読して、どこに何が書いてあるかがだいたい把握できるようになったら、それは(霊的かどうかは関係なく)クリスチャンとしての成長と言えるだろう。あるいは聖書のオーダーをよく理解して行動できるとか、キリストが言う「愛」を理解して実践しようとするとか、適切な言葉で祈ることができるとか、そういうことも単純にクリスチャンとしての成長だと思う。そういう成長にケチをつけたいのではない。

 ただ「成長のための訓練だ」と称して信徒を怒鳴りつけたり、長時間奉仕を強要したり、失敗したり上手にできなかったりしたことで辱しめたりけなしたりするのは、単なる「虐待」であって「訓練」などではないし、ましてそれで「成長」するなんてこともない。ということが言いたいのである。

 それに当の牧師は海外で「厳しい訓練を受けた」らしいけれど、結局金銭問題とか女性問題とかを簡単に起こしている訳で、その「訓練」とか「成長」とかもすごく怪しい。というか人を平気で虐待している時点で、成長も何もない。

・教会を離れた後

 そして教会が解散となり、牧師も消えて、私たちは「成長しなければ」という呪縛から解放された。私個人はとても安堵した。そして立ち止まってみて、さて自分自身の「成長」について考えてみると、果たして何も成長していなかったことに気づかされた。たくさん祈ったし賛美したし礼拝したし奉仕したけれど、成長したのはそのスキルくらいで、全然霊的でも人格的でもない自分がそこにいるのである。ただ「成長しなければ」という強迫観念に突き動かされて、成長したつもりになっていただけの、哀れな人間であった。

 そのことに気づいた時が、最も空しい瞬間だったかもしれない。私のこれまでの人生において。